よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)7

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「逃がすな! 景虎を追え!」
 赤備衆から怒声が上がり、敵の先頭を追い始める。
 味方の異変に気づき、両側から越後勢の足軽に迫っていた真田隊と馬場隊も足を止めた。
「景虎がいるぞ!」
 その声を聞き、真田隊と馬場隊の両軍は一斉に向きを変える。
 これこそが甘粕景持の狙った起死回生だった。
 自らが上杉政虎の幻となり、武田勢の動きを大きく変えようとしたのである。そこには無謀なだけでなく、したたかな企(たくら)みがあった。
 相手は所詮、徒歩の足軽たちである。中央を突破してしまえば、おいそれとは捕まることはない。
 景持は己の一身を餌として大軍を釣り、そのまま敵勢を引き連れ、直江(なおえ)景綱(かげつな)の待つ犀川(さいがわ)の畔まで逃げ回るつもりだった。
 それが成功すれば、武田奇襲隊が越後の本隊に食らいつく機を遅らせることができる。
 問題は、屈強な赤備衆の包囲を突破できるかどうかだった。
 それは一か八かの賭けである。
 ─―来い、武田の者ども! わが尻に喰いついてみよ!
 甘粕景持が睨(にら)む先にわずかな光明が見えていた。
 捨身の策が功を奏し、越後の殿軍大将はまさに敵の囲みを抜けんとしている。
 その様を、赤備の大将は冷静に見つめていた。
「それ以上追うな! 先頭の馬はもうよい! それよりも、後続の馬を仕留めよ!」
 飯富虎昌が声を涸(か)らして下知を飛ばす。
 ─―莫迦者どもめが、逃げられた馬に走って追い付けるわけがなかろうが! 
「馬を傷つけず、鞍上の敵だけを引きずり下ろせ!」
 その命に従い、逃げ去ろうとしていた敵の騎馬をすんでの処で赤備衆が包む。
 一斉に槍を突き出し、鞍上の武者を仕留める。
 竿立(さおだ)ちとなった馬たちの背から、次々と敵の武者が転げ落ちる。
「よし! その要領で他の馬も奪え!」
 虎昌は空馬(からうま)の手綱を摑(つか)み、昂奮(こうふん)する駒の首をさする。
「どうどう、大丈夫だ。安心せよ。今からは、それがしがお前の主(あるじ)だ」
 なだめた馬の鐙(あぶみ)に足をかけ、一気に背へ飛び乗る。
 その鞍上から、必死で逃げる行人包の後姿が見えた。
 赤備衆の包囲を突破した後、越後勢の騎馬一団は大きく右へ進路を変え、善光寺道の方角へ向かっている。
 それを馬場信房の隊が必死に追いかけてゆく。
 ─―ふん。逃げ足の疾い奴よ。あれが景虎のわけはあるまい。おそらく、ただの囮であろう。武神を標榜(ひょうぼう)する割には、ずいぶんと姑息(こそく)な策を弄するものよ。ともあれ、おかげで馬をせしめることができた。
 猛将の機転で越後勢の数十騎を仕留め、敵の馬を奪っていた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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