よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)7

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「すぐに本陣の宇佐美(うさみ)殿へ伝令を出せ! 殿軍が、……殿軍が崩されましたと伝えるのだ!」
「し、殿軍が崩された、と……。まことに、さようなことをお伝えしてもよろしいのでありましょうや?」
「杉原、急げ! 逡巡(しゅんじゅん)している暇はない! 早く伝令を!」
「はっ、畏(かしこ)まりました!」
 杉原憲家は弾かれるように駆け出す。
 殿軍大将の眼前では、敵の圧力に抗しきれない味方の兵が次々と倒されてゆく。
 機を逸した殿軍の撤退は難しかった。そこには生還する余地が、ほとんど残されていない。
 甘粕景持は口唇を嚙みしめながら、もう一人の漢の言葉を思い出していた。
『景持、いずれ、そなたも先陣を担うことになるであろうから、これだけは覚えておくがよい。正直なところ、御屋形様の軍略を全(まっと)うせんとして先陣に出れば、己の死を垣間見(かいまみ)る時が何度もやって来る。そんな時は真白き頭のまま、敵陣へ突っ込むしかない。猪武者と言われようが、匹夫(ひっぷ)の勇と言われようが、そうすべきなのだ。それが生き残るための唯一の光明であり、九死に一生を得るというのは、さようなことだ』
 越後先陣大将、柿崎(かきざき)景家(かげいえ)が語ったことばである。
 その言葉を反芻(はんすう)し、甘粕景持は肚を括った。
 ─―己が分別を誤ったならば、分別を捨てた真白き頭のままに戦うまでよ。なし崩しに死を待つことだけは我慢ならぬ。
 甘粕景持は行人包(ぎょうにんづつみ)で己の兜(かぶと)を隠す。
 それから、もう一人の副将を呼ぶ。
「景親(かげちか)!」
「はっ、ここに」
 副将を務める千坂(ちさか)景親が駆け寄る。
「景親、それがしはこれより騎馬隊を率いて敵の中央を突破いたす。それを囮(おとり)とし、そなたは足軽たちを引き連れて後退せよ!」
「えっ!?」
「このまま手を拱いておれば、われらは全滅を免れぬ。起死回生の一手を繰り出すゆえ、その隙にそなたが残った兵たちを逃すのだ。よいな!」
「はっ! 承知いたしました」
 千坂景親は動揺しながらも殿軍大将の下知に従う。
「騎馬の者どもは、われに続け! 鋒矢(ほうし)の陣で赤備衆を貫くぞ!」 
 甘粕景持は声を振り絞って槍を突き上げる。
「突破した者は後ろを振り向くな! そのまま襲歩(しゅうほ)にて、それがしに付いて参れ! 武田の赤備どもに甘粕隊の土性骨を見せてくれようぞ!」
 殿軍大将は愛駒の尻を槍の石突(いしづき)で叩(たた)く。
「行くぞ!」
 掛声と共に葦毛(あしげ)の駒が急発進する。
「おう!」
 気勢を上げ、猛者揃いの騎馬武者がそれに続く。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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