よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)7

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 甘粕景持はその心理につけ込み、対岸から飛び道具の奇襲を仕掛けて相手を混乱させる。
 武田勢は相手の兵力が読めず、苛立ちを募らせながら小競り合いを仕掛け、渡河に踏み切るまで入念な下見を行った。
 甘粕隊は千曲川を挟み、一千五百ほどの小勢であることをひた隠しにしながら巧妙に戦ってきた。
 しかし、その武田勢が豹変(ひょうへん)したのである。
 ─―どうやら、こちらの兵力を見切られたようだ……。ここからが正念場ぞ!
 甘粕景持は鬼の形相で下知を飛ばす。
「鉄炮隊、弓隊は、川縁より撤退だ! われらより一足先に退陣いたし、御屋形様の本隊へ合流せよ!」
 すでに飛び道具による威嚇は効かなくなっている。
 敵の槍足軽に寄せられれば、鉄炮隊はひとたまりもない。渡河を敢行した武田勢の餌食になる前に、虎の子の部隊を無事に本隊へ戻さなければならない。
 その上で、少しでも相手を食い止め、時を稼がねばならなかった。
「槍隊、前へ! 水際で敵を突き放せ! 土手を上がらせるな!」
 甘粕景持は必死で采配を振るう。 
 だが、肚(はら)を括った武田の赤備衆は、甘粕隊の迎撃をものともせずに進もうとする。一気に浅瀬を渡り、陸続(りくぞく)と攻め懸かってきた。
 土手の上から槍を繰り出す越後勢の兵が、あっという間に押し返される。有利なはずの立場をいとも簡単に覆されていた。
 ─―くっ、疾(はや)い!……武田の寄手(よせて)が疾すぎて後退さえおぼつかぬ。本気の赤備とは、これほどのものだったのか!?
 甘粕景持は咄嗟(とっさ)に自軍の危機を感じ取る。
 しかも、疾いのは正面の赤備衆だけではない。両側からも恐るべき疾さで二軍が迫っている。
 このまま、なし崩しに後退すれば、一気に囲まれる恐れがあった。それを避けようとして敵に背を見せれば、怒濤(どとう)の攻撃に呑み込まれてしまう。  
 瞬く間に戦況が激変し、越後の殿軍大将は崖淵に立たされた。
 ─―まずい!? 次の判断を誤れば、本当に全滅しかねぬ。敵の勢いを殺(そ)げぬまま、われら殿軍がここで呑み込まれれば、御屋形様の本隊が撤退する機を失ってしまう……。
『いかがいたす、景持?』
 耳の奥で、上杉政虎の重々しい声がこだまする。
 ─―いつもより一呼吸早く退却の機を見極めよ。御屋形様は、さように申された。されど、すでに敵を食い止めながら撤退する機を逸してしまった。漫然と退けば、すべてが終わってしまう。あれほど言われていたにもかかわらず、この身は何という分別なき莫迦なのか……。
 甘粕景持は己の判断の甘さを痛感していた。
 その後悔を振り切るように叫ぶ。 
「杉原(すぎはら)! 杉原はおらぬか!」
「はっ、憲家(のりいえ)はここにおりまする」
 副将の杉原憲家が駆け寄る。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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