よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)7

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「兵部(ひょうぶ)殿との合流もせねばなりますまい」
 幸隆が言ったように、飯富(おぶ)虎昌(とらまさ)の隊が最も遅れている。
「それゆえ、われらが松代へ下りるのはいかがなものかと。このまま、雨宮(あめのみや)へ向かうが上策と思いまするが」
「されど、雨宮の周囲に伏兵がないとも限りませぬ。ここで軍勢を二つに割り、松代と雨宮へ分かれて下りた方がよいのではありませぬか」
「軍勢を割ることには、賛同できかねまする!」
 珍しく声高になり、幸隆が言い張る。
「奇襲がすかされたならば、われらはすぐさま挟撃の態勢を取り、八幡原へ向かわねばなりませぬ。それが御屋形(おやかた)様とわれらの約定にござりまする。その際、肝心なのは奇襲隊が一丸となって敵の背後を突くことにござりましょう。それゆえ、まずは雨宮へ下りて兵部殿の隊と合流すべきかと。伏兵に対しては、百足(むかで)衆に露払いをさせますゆえ、総軍で臨戦の構えを取りながら下山いたせばよいではありませぬか」
 その答えに、馬場信房は戸惑いを隠せないが、とりあえず賛同の意を示す。
「……そこまで申されるならば、下山の件は承知いたしました」
「では、さっそく参りましょう。民部殿には後衛をお願いいたしまする。おい、信綱(のぶつな)、昌輝(まさてる)!」
 真田幸隆は二人の息子を呼ぶ。
「これより、雨宮の渡しへ向かって下山いたすゆえ、百足衆が露払いをいたせ!」
「承知いたしました!」
 真田信綱と昌輝は一礼し、素早く踵(きびす)を返す。
 二人は百足衆たちを引き連れ、すぐに下山を始めた
 それに続いて真田隊が妻女山を下り始めると、あれだけ悩まされた滑昇霧がいつの間にか正反対に動きを変えており、麓へ向かって流れては消えてゆく。
 そして、中腹へと差し掛かった時、突然、背後からけたたましい物音が響いてくる。
 ─―何事か!?
 真田幸隆は立ち止まって耳を澄ます。
 背筋に冷たい悪寒が走り、本能的に危機を感じた。
 遠くから、馬の嘶(いなな)きや兵たちの鬨(とき)の如(ごと)き物音が聞こえてくる。明らかに、どこかで戦いが始まっているような気配だった。
 しかし、それが海津城の方角から聞こえてくるのか、八幡原から流れてくるのか定かではない。とにかく、自分たちが向かっている方角の背後だということしかわからなかった。
 ―─おのれ!……またしても、読みが裏目に出たというのか! されど、頂上へ戻って松代へ向かう猶予はない。
 幸隆は思わず舌打ちをする。
 憤怒に焦燥(しょうそう)が加わり、胃の腑で渦巻く。喉元へせり上がりそうになる激情を抑えながら麓に眼を凝らす。
 東から西に向かって霧が流され、先刻よりも様子が明らかになっていたが、そこに敵の姿らしきものはない。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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