よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)7

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 誰もが知らぬ間に呼吸を止めていた。 
 瞬く暇も与えず、相手に迫った上杉政虎は、三尺一寸(約九十四a)の銘刀、小豆長光を振り上げる。
 ─―晴信、覚悟せよ!
 鬼神さえもたじろぐ姿だった。
 天日の光輝を受け、凶暴に煌めく敵の刃文。
 その眩(まぶ)しさから眼を逸らさず、信玄は軍扇を構える。
 ─―刀は間に合わぬ! 来るなら来い、景虎!
 武田の総大将は、床几の上から動かない。
 二人の間合が、一呼吸を切る。
 放生月毛が宙を舞い、上杉政虎は相手を目がけて太刀を繰り出そうとする。
 その刹那、だった。
 諏訪法性(すわほっしょう)の獅嚙(しかみ)が吼(ほ)える。
 信玄の兜で鬼相の獅子が咆哮(ほうこう)したように見えたのは、上杉政虎が背にした天日のせいだった。
 魔を除ける黄金の前立(まえだて)が陽光を受け、その乱反射が政虎の両眼を直撃したのである。
 それをものともせず、上杉政虎は刀を振り下ろす。
 切先が大気を切り裂き、白い筋を描く。
 それはまっすぐに信玄の喉元へと迫る。
 政虎が満を持して信玄の命の核心へ放つ一撃だった。
 驚くほどゆっくりと迫る刃を、信玄は瞬きもせず見つめる。自然に軆が反応し、その一太刀を軍扇で弾く。
 交錯。中空に何かが舞い散る。
 信玄の首から夥しい血飛沫(ちしぶき)が噴き出したのではないかと思われた。
 しかし、それは上杉政虎の小豆長光が斬り飛ばした白熊(はぐま)の蓑(みの)に、具足の朱色が照り返したものだった。
 ほんの寸分。上杉政虎の一太刀は確実に敵の喉笛へ迫っていたが、なにゆえか、その切先は信玄の首の一寸(三a)だけ左を抜けてゆく。
 いや、一寸さえもない。まさしく、紙一重の差である。
 その証左に、信玄の兜に付いている大きな吹返しが真っ二つに裂けていた。
 ─―あの間合で、わが太刀が届かなかった、だと……。
 馬首を返そうとしながら、上杉政虎は驚愕していた。
 刀を振り下ろした刹那には、はっきりと太刀筋が相手の首を捉える様が見えていた。それにもかかわらず、敵の脇を抜けた時、太刀には仕留めた手応えがなかった。
 驚愕していたのは、上杉政虎だけではない。
 信玄もまた心の臓が止まるほど驚愕していた。
 ─―避けきれぬかもしれぬ。
 切先が迫った時は、咄嗟にそう観念した。
 しかし、その刃は己の喉の脇を紙一重で抜けていく。それでも、確かに鎌鼬(かまいたち)が通り過ぎるが如き激痛を感じる。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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