よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)7

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「なんということか……。そこまで追い込まれる前に、なにゆえ退陣いたさなかったのか。景親、いつもより一呼吸早く退くように景持へ促せと、そなたにも申し渡してあったではないか!」
 老将は甘粕隊の副将を叱責する。
「……申し訳ござりませぬ。されど、武田の寄手は万を越えるほどの多勢であり、いきなり総軍での渡河を敢行してきましたゆえ、一呼吸早めに退くことも叶いませなんだ」
「万を越えるほどの寄手……。景親、それがこちらへ向かっているのだな」
「さようにござりまする」
「御屋形様、すぐに退陣を!」
 険しい面持ちになった宇佐美定満が叫ぶ。
「どうやら、潮目が変わったようであるな」
 上杉政虎はゆっくりと立ち上がる。
 その横顔には、何の恐れも浮かんでいないように見えた。
「宇佐美、総軍に退陣を触れ回れ! それから、皆を先導し、小市(こいち)にいる景綱の隊と合流せよ」
「御意!……されど、景持は」
「多勢を相手にずるずると退いたのではなく、あえて敵中へ飛び込んだというのならば、あるいは九死に一生を得ているやもしれぬ。今は、あ奴の勘を信ずるしかあるまい」
「無茶ばかりしよる莫迦者めが!……無事に戻ったならば、たっぷりと灸(きゅう)を据えてくれる。して、御屋形様はいかがなされまするか?」
 宇佐美定満がいぶかしげな表情で訊く。
「案ずるな。敵陣をひと駆けしてから、余も小市へ向かうゆえ」
 政虎は半眼の相でこともなげに言い放つ。
 ─―敵陣をひと駆け!?
 老将は苦虫を嚙みつぶしたような面持ちで黙り込む。
 ─―背後に敵の大軍勢が迫っているというのに、この期に及んで何ということを。……されど、御屋形様が言い出したからには、お止めしても聞いてはくださるまい。
「長親(ながちか)、槍を!」
 政虎は河田(かわだ)長親から沈金細工の黒漆槍を受け取る。
「宇佐美。後は、頼んだ」 
「御意! 長親、行くぞ!」
 宇佐美定満は引き締まった顔で答え、旗本衆を撤退させ始める。
「残った者は、よく聞けい! これより余は敵本陣を抜け、小市へと参る!」
 総大将の全身からは、陽炎(かげろう)の如き澄んだ闘気が立ち上っていた。
「はっ!」
 数十騎だけ残った旗本衆が声を揃える。
「信玄のいる本陣の両脇で、頼経と盛信が毘の一文字旗を掲げている。よいか、われらが目指すはその旗の中央ぞ! 道中、寄ってくる武田の小者どもは捨て置け。神速をもって敵中を突き抜けよ! 露払いは和田(わだ)。宇野(うの)、そなたら両名にまかせる!」
「御意!」
 和田喜兵衛(きへえ)と宇野左馬之助(さまのすけ)が強ばった面持ちで叫ぶ。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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