第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)7
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
─―動くならば、この機やもしれぬ。……されど、ここで余が動けば、すなわち、それが武田の敗勢を認めることになる。その刹那、総軍が士気を失い、奇襲に回った者たちまで全滅することもあり得る。総大将自らが弱気の蟲(むし)に取り憑(つ)かれ、早々に敗北を認めてどうするか。ここはあえて、動かざること、山の如し。それしか、あり得ぬ!
心を決めた信玄は腕組みをほどいて眼を見開く。
「散っていった家臣たちの命は、決して無駄にせぬ。余はここへ留まって戦うつもりゆえ、余計な心配をいたすな」
きっぱりとそう言い切った。
驚愕の面持ちとなった家臣たちに構わず、総大将は床几から立ち上がる。
「少しばかり劣勢であるとはいえ、まだ負けが決まったわけではない。左右の備えを寄せ、陣を緊密にして敵の進攻を凌(しの)ぐ。まずは残った者総員で敵の攻撃を食い止める。すべての者に臨戦の態勢を取らせよ! 敵を足止めをいたせば、必ずや背後から奇襲隊が駆けつける! 今はそれを信じよ!」
信玄は鉄扇を振り、素早く采配する。
まるで、陣中を包む沈鬱な空気を打ち払うが如き仕草だった。
「ぼやぼやいたすな! 己が持場へ戻れ!」
総大将の大声に弾かれ、一同は慌ただしく動き始める。
ほんのわずかながら、将兵たちに覇気が戻っていた。
─―この采配が正しければ、劣勢を盛り返せるやもしれぬ。されど、間違っておれば、己が死に、武田が滅ぶだけ。采配の正否が、問題なのではない。余がここから動けば、それこそ景虎の思う壺に嵌(はま)る。その愚だけは、避けねばならぬ。
鋭い眼差しで越後勢の迫る前方を見据える。
越後勢の圧力は衰えていなかったが、信玄は再び床几に腰掛け、不動の構えを取った。
その頃、越後の総大将もまだ動かずにいた。
一千ほどの馬廻(うままわり)衆に囲まれ、上杉政虎は鞍上で身動ぎもしない。
その脇に険しい面持ちの老将、宇佐美定満(さだみつ)が立っていた。
政虎の旗本にも慌ただしく伝令が訪れ、刻々と変わる戦況を報告する。
開戦当初から敵の虚を衝(つ)いた車懸(くるまがかり)の戦法が大きな優勢を築き、柿崎景家が敵の先陣大将を打ち破った。
しかし、ここにきて龍蜷(りょうげん)車懸の攻撃は止められ、乱戦となっている。それでも敵の先陣を潰滅に追い込み、ここまでは己の描いた策通りに戦いが進み、その用兵にはひとつの破綻も見当たらない。
上杉政虎は自軍の優勢を聞いても、まったく喜ぶ素振りなどしなかった。いつものように長い睫毛(まつげ)を微かに伏せ、どこか遠くを見るような眼差しを投げかけている。
─―御屋形様が眼前の戦況よりも、何か別のことを考えておられるように見えるのは、この身だけか?
宇佐美定満はいぶかしげな面持ちで総大将の端正な横顔を見つめた。
─―かような劣勢となっても、武田晴信は梃子(てこ)でも陣を動かさぬつもりか。ならば、そろそろ潮時かもしれぬな。
上杉政虎が腕組みをして声を発する。
「宇佐美」
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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