よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)7

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「まどろこしいの。盾もない。馬もない。肝心なものが何ひとつ、この手にないとは……。いつもならば、腐るほど転がっているというのに。こんなことになるのならば……」
 虎昌が言葉を止め、口唇を嚙みしめる。
 こんなことならば、奇襲隊になど回るべきではなかった!
 その言葉をすんでのところで呑み込む。ここでは何があっても吐いてはならない類の愚痴だったからである。 
「……いっそ、総軍を横一文字に並べ、一気に河を押し渡ってはどうか」
「兵部殿、それでは自軍にどれほどの犠牲がでるか読めませぬ」
 馬場信房が脇から口を挟む。
「さようなことは、わかっておるわ! 戦(いくさ)に犠牲はつきもの! それがしは時を惜しめと申しておるのだ。われらが手を拱(こまぬ)いておる間に、御屋形様の陣がどれほどの兵を損じているのかわからぬ。渡河の先頭は、われら赤備衆が担う! この装束ならば、いくら血にまみれようとも手負いには見えぬ! 民部よ、犠牲が怖いならば、そなたの隊は矢代の渡しへ迂回(うかい)いたせ!」
 家中一の猛将が苛立ちをぶつけるように怒鳴る。
「……な、何もそこまで申されなくても。われらとて臆しているわけではありませぬ」
「言葉の端々に臆病の虫が見え隠れしておるではないか」
「臆病とは失礼千万! 智慧(ちえ)のない猪突猛進(ちょとつもうしん)こそ、いかがなものかと……」
 馬場信房はそっぽを向いて吐き捨てる。
「誰が智慧のない猪武者(ししむしゃ)ぞ!」
 飯富虎昌が気色ばんだ。
 険悪な雰囲気となった二人の間に、真田幸隆が冷静な口調で割って入る。
「いや、兵部殿の申されることにも一理ありまする。民部殿には矢代へ回っていただくのが上策かもしれませぬ」
 意外な言葉に、いがみ合っていた二人も思わず顔を見合わせる。
「されど、決して民部殿が臆しているなどという意味ではありませぬ。力攻めで渡河を行うにせよ、ここはひとつ、大きな損害を受けた時の策も案じておかねばなりますまい」
「大きな損害だと!……いったい何が言いたい?」
 虎昌が口唇を歪(ゆが)めて訊く。
「兵部殿、越後勢がそれなりの軍勢で待ち受けていれば、力攻めで渡河した隊は必ずや大損害を受けまする」
「越後勢が大軍で?!……妻女山へ登った総勢は、一万三千ほどと聞いておる。当たり前に考えれば、渡河を妨げるためとはいえ、その半分でさえもこの岸へ回すはずがないではないか」
「疑心を抱けばきりがありませぬが、ここまで裏をかかれ続ければ、何があっても不思議ではありますまい。景虎が御屋形様の本隊を狙うと見せかけ、われらを殲滅(せんめつ)するために待ち受けているやもしれませぬ」
「まず、武田の半分を潰し、それから本隊を狙うと?」
 さすがの猛将も顰面で訊き返す。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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