よみもの・連載

信玄

第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)7

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

「……よろしいかと存じまする。その御奮闘のかいがあり、越後勢が行っていた奇妙な攻撃が止まったそうにござりまする。義信様がそのことをお知りになり、第二陣を率いて先陣の者たちを救援にまいられました」
「義信が打って出たと?」
「はい。さようにござりまする。敵の勢いが止まった以上、迎え撃つよりも打って出る方が有利だとご判断なされました」
「うむ、さようか」
「御屋形様、実は義信様から御伝言が……」
 阿倍勝宝が俯(うつむ」き加減になる。
「何であるか?」
「第二陣は先陣の救援に向かいますが、いざとならば旗本は海津城へ退くこともお考えくださりませ、と」
「海津城への撤退か。義信が菅助と同じことを申したか……」
「かようにも申されました。われら第二陣と先陣の残りが踏ん張り、兵部殿たちの奇襲隊が戻って挟撃なされば、まだ巻き返せるかもしれませぬ。されど、決して予断を許さぬ状況であり、旗本に退いてもらうことも考えてもらわねばならぬ、と。これは義信様だけではなく、典厩様も仰せになっておられたことにござりまする」
「心得ておく」
 信玄は静かな口調で答える。
「大儀であった。持場に戻るがよい」
「御意!」
 阿倍勝宝が立ち上がり、素早く立ち去る。
 ─―先陣の大将たちがすべて撤退を進言か……。それが今の戦況を端的に物語っている。すでに敗勢の色が濃厚ということであろう……。
 信玄は再び眼を閉じる。
 ─―されど、信繁(のぶしげ)。まさか、そなたが……。
 まだ使番たちの言葉を受け止めきれていない己がおり、あらゆる情動を排除しようとする。もう一人の自分が懸命に感情の根という根を引き抜き、悲嘆に流されることを拒んでいた。
 ─―この場に武田の総大将として留(とど)まる限り、「実弟の死」に感情を揺らすことはできぬ。
先ほど、信繁の近習である春日(かすが)源之丞(げんのじょう)が紅母衣(あかほろ)に包んだ乱髪の鬢(びん)を持って来た時、それなりの覚悟はしたはずだった。されど、己が胸中で決める覚悟など、やはり絵空事に過ぎぬのか……。
 それが信玄の正直な思いだった
 ただ胸の裡で「信繁」という言葉だけが谺(こだま)する。
 しかし、先陣大将の討死は、この旗本にまったく別の意味をもたらしていた。
 それは信玄が総大将として選択した策が敵に読まれ、完全に裏を搔かれたことを示唆している。
 すなわち、己を含め、八幡原に展開した武田勢が全滅もあり得る危機に直面しているということである。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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