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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第二章 敢為果断(かんいかだん)4 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

 しばらくして、襖戸(ふすまど)の外から声がかかる。
「お前様……」
 藤乃(ふじの)の声だった。
「んっ?……どうした?」
「何やら、お室から読経のような声が響いてまいりましたので、心配になって……」
「ああ、そのことか。構わぬから中へ入れ」
 信方に促され、藤乃が静かに襖を開けて入室する。
「経ではない。古今集を読んでいたのだ」
「古今集……古今和歌集のことにござりまするか、勅撰(ちょくせん)の?」
 藤乃は驚きの表情で訊く。
「さようだ。実は都から公卿(くぎょう)を招いて歌会が開かれることになったのだ。今川(いまがわ)家が仲介し、御屋形(おやかた)様の肝いりで行われるゆえ、少し予習をしておかねばならぬと思うたのだ。皆の前で恥を搔きたくないからな。岐秀(ぎしゅう)禅師に『和歌の手習いならば、まずは古典の音読がよい』と薦められてな」
「ああ、なるほど、それで。てっきり、お経を読んでおられるのかと思いました」
 小さく噴き出した藤乃を、信方は軽く睨(にら)む。
「首供養の支度でもあるまいに、読経などするわけがなかろう」
 戦場(いくさば)であげた敵の首級(しるし)が三十三に達すると、武士は首供養という法要を行う習わしになっていた。
「少し安心いたしました」
「それほど不気味に聞こえていたのか?」
「和歌とは思えませなんだ。どうせならば、もっと明るく高らかに音読なさればよろしいのに」
「この歳になれば、童(わらわ)の如く朗々と音読などできぬ。ただでさえ、風流事は不得手なのに」
 信方が仏頂面で答える。
「晴信様ならば、なさっているのでは?」
「えっ!?……まあ、そうであろうとは思うが。この歌会とて、若のために開かれるようなものだからな。ああ、そなたにはまだ伝えておらなんだが、若の御婚儀が決まった」
「まあ! どなたと?」
「京の転法輪三条(てんぽうりんさんじょう)公頼(きんより)様の御次女だそうだ」
「朝廷の偉い御方ではありませぬか」
「家格は摂家に次ぐ清華(せいが)家であり、御父上はいずれ内大臣となられるらしい」
「それはまた、大変な御姫様をお娶(めと)りに!」
「まだ輿入れ前だというのに、すでに若が悩んでおられる。公卿の御息女といかように接すればよいか、皆目わからぬとな。それだけでなく、朝霧(あさぎり)殿のこともあったからな」
 夫の言葉に、藤乃が思案顔になる。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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