しばらくして、襖戸(ふすまど)の外から声がかかる。 「お前様……」 藤乃(ふじの)の声だった。 「んっ?……どうした?」 「何やら、お室から読経のような声が響いてまいりましたので、心配になって……」 「ああ、そのことか。構わぬから中へ入れ」 信方に促され、藤乃が静かに襖を開けて入室する。 「経ではない。古今集を読んでいたのだ」 「古今集……古今和歌集のことにござりまするか、勅撰(ちょくせん)の?」 藤乃は驚きの表情で訊く。 「さようだ。実は都から公卿(くぎょう)を招いて歌会が開かれることになったのだ。今川(いまがわ)家が仲介し、御屋形(おやかた)様の肝いりで行われるゆえ、少し予習をしておかねばならぬと思うたのだ。皆の前で恥を搔きたくないからな。岐秀(ぎしゅう)禅師に『和歌の手習いならば、まずは古典の音読がよい』と薦められてな」 「ああ、なるほど、それで。てっきり、お経を読んでおられるのかと思いました」 小さく噴き出した藤乃を、信方は軽く睨(にら)む。 「首供養の支度でもあるまいに、読経などするわけがなかろう」 戦場(いくさば)であげた敵の首級(しるし)が三十三に達すると、武士は首供養という法要を行う習わしになっていた。 「少し安心いたしました」 「それほど不気味に聞こえていたのか?」 「和歌とは思えませなんだ。どうせならば、もっと明るく高らかに音読なさればよろしいのに」 「この歳になれば、童(わらわ)の如く朗々と音読などできぬ。ただでさえ、風流事は不得手なのに」 信方が仏頂面で答える。 「晴信様ならば、なさっているのでは?」 「えっ!?……まあ、そうであろうとは思うが。この歌会とて、若のために開かれるようなものだからな。ああ、そなたにはまだ伝えておらなんだが、若の御婚儀が決まった」 「まあ! どなたと?」 「京の転法輪三条(てんぽうりんさんじょう)公頼(きんより)様の御次女だそうだ」 「朝廷の偉い御方ではありませぬか」 「家格は摂家に次ぐ清華(せいが)家であり、御父上はいずれ内大臣となられるらしい」 「それはまた、大変な御姫様をお娶(めと)りに!」 「まだ輿入れ前だというのに、すでに若が悩んでおられる。公卿の御息女といかように接すればよいか、皆目わからぬとな。それだけでなく、朝霧(あさぎり)殿のこともあったからな」 夫の言葉に、藤乃が思案顔になる。