連載
「新 戦国太平記 信玄」
第二章 敢為果断(かんいかだん)4 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

「お心遣い、まことに有り難く」
 晴信は己の脇に錦袋を置く。
「どうか、ご覧いただきますよう、お願い申し上げまする」
 常磐は落ち着いた声で言った。
「えっ!?……この場にて?」
「はい。御口上なども預かっておりますゆえ」
「あ、ああ……さようにござるか……」
 晴信はぎこちない手つきで錦袋の紐(ひも)を解く。中から袱紗(ふくさ)の包みが現れ、それを開くと蒔絵(まきえ)を施した漆箱が出てくる。
 信方にちらりと視線を送ってから、晴信は漆箱の蓋を開ける。
「おおっ」
 思わず感嘆の息が漏れた。
 漆箱の中には、いかにも上等そうな筆が数本と、硯(すずり)と墨、紙束と短冊などが入っている。
「こたびはこちらの御館にて冷泉為和様の御歌会が開かれると聞き及びまして、晴信様にお使いいただく歌会道具などをご用意させていただきました。筆は南都の正倉院に収められております御物の天平(てんぴょう)筆を模した逸品で、黒鹿毫(くろじかごう)を使うたものにござりまする。筆職人から『香具山(かぐやま)の鹿(か)の尾(お)を使いました繊細な筆先が、かな文字で和歌を揮毫なさるには最適』と伺いました。慶子様は紅をお引きになるため、同じような白鹿(はくしか)毫の短筆をお使いになっておられまする」
 常磐が進物についての口上を述べ始める。
「あ、ああ、なるほど……」
 思わず筆を手に取り、晴信は筆先を凝視する。
「硯は熊野の那智黒(なちぐろ)、墨は明国から渡ってきました李墨(りぼく)をご用意させていただきました。那智黒石は和硯として上等なもので、南唐の製墨家でありました李(り)廷珪(ていけい)が作りました極上の古墨と実に相性が良うござりまする。磨(す)り上がりました後は、その色、類を見ぬ漆黒となり、香りも一段と高くなりまする。この墨汁に合うものといたしまして、懐紙は大鷹の檀紙(だんし)と越前漉(す)きの鳥之子紙(とりのこがみ)、それに金粉を散らした短冊などをお揃えいたしました。いずれも慶子様が精魂を込めて選ばれたものにござりまする。これならば、為和様の御歌会にご持参なされても遜色(そんしょく)なき品々かと」
 那智黒は勝浦の熊野那智大社の周辺で採れる硬い粘板岩であり、平安朝の治世から硯の材料として使用され、当世においては上古の逸品ともてはやされている。
 李墨は、足利(あしかが)義満(よしみつ)の勘合交易によって日の本にもたらされた古墨で、歴代の中華皇帝が「黄金は得やすく、李墨は求め難い」と褒め称えたほどの重宝だった。



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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