第三章 出師挫折(すいしざせつ)16
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「それは……。願ってもない、お訊ねにござりまする」
禰津元直も微笑を返しながら言葉を続ける。
「少々長く、御耳を煩わせることになるやもしれませぬが、どうかお聞き届けくださりませ。われら禰津の者は確かに滋野一統の中で北の御牧(みまき)を預かる一族でありました。されど、かの地に長く根を張ることにより、小県(ちいさがた)だけでなく佐久(さく)や諏訪とも親交が生まれるようになりました。とりわけ当方と諏訪家は鷹狩の宗家であり、贄鷹(にえたか)の神事などを通じて特別な関係にありました」
元直が言ったように、諏訪大社の御射山(みさやま)祭では、鷹狩によって捕獲した動物を生贄(いけにえ)として奉納するという「贄鷹の神事」を行っている。
もちろん、これを取り仕切るのが諏訪家だったが、禰津家にも同じく源政頼(みなもとのせいらい)流の放鷹(ほうよう)術が伝承されており、両家は技術研鑽(けんさん)の交流を続け、日の本でも屈指の鷹匠家と讃えられるまでになっていた。
「されど、滋野一統と諏訪家は決して折り合いが良かったとはいえず、当方が諏訪家と親密になることを快く思わぬ者も少なくありませなんだ。特に、滋野の宗家を嗣(つ)いだ海野棟綱(むねつな)殿は諏訪家を敵視しており、さような中、前の海野平合戦が起きました。村上、小笠原だけならばまだしも、諏訪家と武田家までが敵側に廻(まわ)ったと聞き、われらはとても勝目がないと判断いたしました。棟綱殿は関東管領(かんれい)が味方してくれるゆえ、最後まで戦うと申されたが、上杉憲政(うえすぎのりまさ)が当てにならぬことはわかっておりました。正直に申せば、それがしはあの戦を本気で戦うつもりなどなく、諏訪頼重殿へは禰津家は籠城にて静観すると伝えてありました。さすれば、武田家も進軍途上の小城には眼もくれるまいと思いまして。案の定、結果はあの通り、関東管領も形だけの兵をよこしただけで小県はまんまと村上に奪われてしまいました」
海野棟綱をはじめとする滋野一統は関東管領を頼り、上野国(こうずけのくに)の吾妻(あがつま)に敗走したが、禰津元直は降伏した後、諏訪家の猶子として本貫の地を安堵(あんど)される。
しかし、息子の禰津政直(まさなお)は降伏を潔しとせず、真田(さなだ)幸綱(ゆきつな)(幸隆〈ゆきたか〉)らと吾妻へ逃げたままだった。
「あの戦の後、諏訪頼重殿とは上手くやっておりましたが、まさか小笠原と和睦し、諏訪へ引き入れるとは思うておりませなんだ。もしも、事前に相談がありましたならば、それがしは反対していたでありましょう。海野平の合戦に参加した者たちの中で、小笠原長時(ながとき)こそが最も信用ならぬ人物。信濃(しなの)守護を名乗りながら土性骨も持たぬ日和見(ひよりみ)者。少なくとも、それがしはさように見ておりまする。頼重殿の命運は、あの長時と組んだ時に尽きておりました。そうした一連の出来事を間近にて見る中、小笠原の軍勢を素早く撃退し、諏訪へ出張って頼重殿を自害にまで追い込んだ武田家の手腕は、見事としか言いようがありませぬ。もちろん、これまで親交のあった頼重殿の死は残念でありますが、かような乱世に生きる一人の武将として見るならば、なにゆえ頼重殿が武田家と手を携え、小笠原と村上を打ち破ることを選ばなかったのかということこそが残念でなりませぬ。それも惣領(そうりょう)としての器量としか言い様がないと考えますれば、われらの選択も自ずと明らかになりました」
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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