第三章 出師挫折(すいしざせつ)16
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
元直は背筋を伸ばし、晴信を見つめる。
「こたびのことで、それがしは武田家が本気で諏訪へ乗り出したと思うておりまする。ゆえに、上伊那(かみいな)を制した後には、必ず佐久へ出張って行かれるのだろうと推察いたしました。そうとならば、われらにも無関係ではありませぬゆえ、早々に態度を決めるべきだと考えました。結論から申せば、いち早く武田家の麾下へ入り、佐久への侵攻をお手伝いするというのがわれらの選んだ道にござりまする。上伊那、佐久が片付けば、当然のことながら次は松本平(まつもとだいら)か、小県ということになるのではありませぬか。双方とも、われらにとっては勝手知ったる地ゆえ、それなりの嚮導(きょうどう)ができると存じまする。加えて、それがしの私見として申し上げれば、上野へ逃げた滋野一統の中にも、小県への帰参を望んでいる者が少なくはないと睨(にら)んでおり、もちろん、そこには、わが愚息も含まれておりまする。されど、村上が居座る限り、滋野一統が本貫の地へ戻ることはできますまい。あの者は強欲で、横柄で、われらの話に耳など貸しませぬ。ならば、武田家の麾下へ入り、村上を北信濃へ追い出した後、本貫の地を安堵していただくのが、最も早い道だと考えまする。もちろん、それがしが帰参を望む者たちに、さような説得をすることもやぶさかではありませぬ。長々とわが本音を聞いていただき、まことに有り難うござりまする」
禰津元直は両手をつき、深々と頭を下げた。
話を聞き終えた晴信は満足げな表情で頷(うなず)く。
「禰津殿、そなたの話が聞けてよかった。われらが考えている事柄と、そなたが考えている事柄は、さほど大きな相違はない。ならば、利害も一致し、歩みを揃えることもできよう。こうして諏訪へ出張ったからには、半端な覚悟は命取りになる。当家はすでに肚(はら)を括(くく)った。こたびのことを縁に、今後ともよろしく頼む」
「こちらこそ、よろしくお願い申し上げまする」
「では、板垣。手配りの詳細は、そなたに任せる」
「承知いたしました」
信方はすぐに村上と小笠原の侵攻に備えた。
これが十月半ば過ぎのことである。
そして、禰津元直の読み通り、十月二十一日に村上勢と小笠原勢が内村(うちむら)街道と大門街道の合流地点である腰越(こしごえ)で落ち合った。
その翌日、連合軍は大門街道を進み、峠を目指す。
しかし、武田勢はすでに大門峠の最高所に陣取っていた。もちろん、原(はら)虎胤(とらたね)の率いる別働隊は禰津城に入っており、村上と小笠原の背後を虎視眈々(こしたんたん)と狙っていた。
村上と小笠原の連合軍が峠に迫った途端、両脇の林に潜んでいた武田の弓隊が雨霰(あめあられ)の如(ごと)き矢を浴びせかける。この奇襲に驚いて後退した連合軍に、武田本隊の騎馬隊が槍を構えて迫った。
さらに原虎胤の率いる別働隊と禰津勢ががら空きとなった背後に廻り込み、法螺を吹き鳴らし、鬨(とき)の声を上げる。これに驚いた村上と小笠原の連合軍は完全に算を乱し、散り散りになって麓へ逃げ出した。
そこに峠の頂上からけたたましい銅鑼(どら)の音が響き、腰越の付近では呼応するように太鼓が打ち鳴らされる。まるで村上と小笠原の連合軍の動きを伝えているかのような合図だった。
慌てふためいた村上勢は北国(ほっこく)街道に戻ることもできず、西の内村街道へと逃げる。小笠原勢はいち早く背を見せ、西の深志(ふかし)城へ向かって敗走した。
十月二十三日、晴信は一兵も失うことなく村上義清と小笠原長時の軍勢を撃退した。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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