-短編ホテル-「聖夜に」

聖夜に

下村敦史Atsushi Shimomura

 実際、そのとおりだ。
 マリカはフィリピンのマニラ北部にある町で生まれ育った。弟が三人、妹が二人の大家族だ。
 フィリピンでは、家族を一人でも多く大学へ行かせ、海外へ出稼ぎに行ってもらうことが重要だった。だが、サント・トマス大学─アジア最古の大学の一つ─やフィリピン国立大学PUに入れるほどの学力は当然ながらなく、十六歳で社会に出た。中等教育(ハイスクール)は四年間なので、卒業すれば十六歳から大学生になれるのだ。
 飲食店で働きながら、稼ぎの大半を家に入れる日々──。
 カツベと出会ったのは二年半ほど前。二十歳の聖週間セマナ・サンタの時期─フィリピンで最も暑い四月だった。聖金曜日、十字架に磔(はりつけ)にされたイエス・キリストの受難を再現した行列が町を練り歩いていた。ローマ兵に扮(ふん)した者たちが十字架を掲げ、運んでいく。
 群衆に紛れて儀式を眺めていたときだ。マリカは背後から誰かにぶつかられ、よろめいた。振り返ると、素知らぬ顔で男が歩き去っていくところだった。
 内心でため息を漏らしたとたん、突然「おい!」と怒声が響き渡った。
 一人の日本人が突き進み、男の手首を鷲掴(わしづか)みにして腕を引っ張り上げた。その手には古びた財布が握り締められている。
「私の財布──」
 唖然(あぜん)として声が漏れた。
 男はスリだったのだ。
 日本人は財布を取り返してくれた。鋭角的な顔立ちで、長めの黒髪は後ろで結んでいる。口髭(くちひげ)を生やしており、襟元が汗で黒ずんだシャツと短パン姿だ。
「スリには気をつけな」
 片言のフィリピン語だった。
「ありがとうございます」
 日本人は軽く手を上げて応じ、「じゃあな」と歩き去った。
 その日本人と二度目に顔を合わせたのは、働いている飲食店だった。カツベの姿に気づいたとき、「あっ」と声が漏れた。彼はココナッツの蒸留酒『ランバノグ』を何杯も飲み、大盛りの焼きビーフンパンシッド・ギサドを食べていた。
「あんたはこの前の──」
 彼は覚えていてくれた。
「あのときはありがとうございました」
「たまたま目に入ったからさ」日本人は『ランバノグ』を口に運んだ。「俺はカツベ。君は?」
「マリカです。あなたは観光客ですか?」
「いや、こっちに住んでる。もう六年になるかな。クソッタレの日本社会に絶望してね。今はNPOで働きながら、まあ、ぼちぼち、楽しく生きてるよ」
 台詞(せりふ)に反して仄暗(ほのぐら)い闇を湛(たた)えた瞳が『ランバノグ』の液体に落ちる。自嘲の薄笑みが唇に刻まれていた。

プロフィール

下村敦史(しもむら・あつし) 1981年京都府生まれ。2014年に『闇に香る嘘』で第60回江戸川乱歩賞を受賞し、デビュー。他の著書に『生還者』『失踪者』『告白の余白』『黙過』『刑事の慟哭』『絶声』『ヴィクトリアン・ホテル』『白医』など多数 。