-短編ホテル-「サンセールホテル」

サンセールホテル

柚月裕子Yuko Yuduki

 高台へ続く道を、秋羽広大(あきばこうだい)はクロスバイクで登っていた。
 傾斜はきつく、坂は長い。
 道沿いにはいくつもの桜の樹(き)があり、いまが見ごろだった。しかし、いまの広大に花を愛(め)でる余裕はない。朝六時からの朝礼に遅刻しないために、息をあげながらペダルを漕ぐ。
 高台のうえには、緑に囲まれたホテルがあった。広大が勤めている、サンセールホテルだ。
 創業明治十四年、国内初の本格的なリゾートホテルとして静岡(しずおか)県に開業し、いまでも多くの人々をもてなしている。憧れのクラシックホテルとして知られている。
 サンセールホテルが憧れのクラシックホテルと呼ばれている理由はいくつかある。
 ひとつは、相模(さがみ)湾を一望できる景勝地であること。およそ百ある客室のすべてがオーシャンビューで、天気がよければ富士山(ふじさん)が望める。
 もうひとつは、建物だ。敷地には本館と別館、三号館があり、すべて五階建てになっている。一番古い建物は創業当時に建てられた本館で、国の有形登録文化財に指定されていた。設計をしたのは各地で美術館などを手掛けた有名な建築家で、建物の至るところに芸術性とこだわりが見受けられる。
 あとひとつあげるならば、客室の風呂だ。
 サンセールホテルは二万坪近い土地を所有しているが、敷地内に温泉の源泉がある。その湯がすべての客室に引かれているのだ。
 大浴場などに源泉を引いているホテルはほかにもあるが、客室すべてで温泉が楽しめるのは国内でサンセールホテルしかない。部屋にいながらにして源泉かけ流しが楽しめる貴重な設備がホテルの魅力のひとつで、創業からいままでに多くの著名人が訪れている。
 坂を登り切った広大は、敷地を迂回(うかい)して本館の裏手に回った。北側の木立に囲まれた場所は、ホテルの従業員用の駐車場になっている。空いているところに乗ってきたクロスバイクを止め、リュックから取り出したワイヤーロックで錠をかけた。
 裏口からなかへ入り、従業員用の更衣室に向かう。
 自分のロッカーから制服を取り出し手早く着替え、腕時計の時間がずれていないか確認する。午前五時五十分。スマートフォンに表示されている時刻を秒まで合わせた。
 朝礼は隣のスタッフルームで行われる。
 急いで更衣室を出ると、ちょうど向かいの女子更衣室から出てきた三輪彩香(みわあやか)と鉢合わせた。
 三輪はサンセールホテルで、客室係マネージャーを務めている。広大の直属の上司で、一般企業に喩(たと)えるなら広大は平社員、三輪は係長だ。いつものように黒髪を高い位置でひとつにまとめ、首にサンセールホテルのマークが入ったスカーフを巻いている。いつもながら、服装にみじんの乱れもない。
 広大は緊張した。

プロフィール

柚月裕子(ゆづき・ゆうこ) 1968年岩手県出身。2008年「臨床真理」で第7回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞しデビュー。13年『検事の本懐』で第15回大藪春彦賞を、16年『孤狼の血』で第69回日本推理作家協会賞を受賞。他の著書に『慈雨』『盤上の向日葵』『暴虎の牙』『月下のサクラ』などがある。