-短編ホテル-「サンセールホテル」

サンセールホテル

柚月裕子Yuko Yuduki

 六時きっかりに、部屋の奥にいた男性が号令をかけた。
「いまから朝礼をはじめます。おはようございます」
 部屋にいる全員が姿勢を正し、男性に向かって声を張った。
「おはようございます」
 この場を仕切っている男性は、宮田正一(みやたしょういち)。客室係の支配人だ。一般企業に喩えるなら、客室係全体をまとめている部長だ。年は三十五歳で、ホテルマンのキャリアは十三年になる。
 宮田はホテルに勤めてからずっと、宿泊部門だ。フロント、ベルアテンダント、ドアアテンダント、コンシェルジュ、客室係のすべてを経験し、二年前に宿泊部門の支配人に任命された。
 宮田の仕事ぶりは、この仕事が天職と思えるものだ。言葉遣い、物腰、丁寧な接客は完璧で、まさにホテルマンになるために生まれて来たような者だと思う。
 広大に限らずほかの者も同様に思っているが、本人はどうやらそうではないらしい。スタッフルームやひと目がないところでは、いつもこの世の終わりのような顔で考え込んでいる。手配は間違っていないか、客に対して失礼はなかったか、備品の手違いはないかなど、ひとりでぶつぶつ言っている。宮田の額の生え際がかなり後退しているのは、仕事のストレスだと広大は思っている。
 宮田は遅番からの申し送りを行った。
 昨晩、急用が入り深夜にチェックアウトした客がいたことを除いては、特に問題はなかった。客からの苦情は三件。寝巻が希望していたサイズではなかったことと、フロント係の対応が遅いこと、ベルアテンダントの荷物の扱いが雑だというものだった。
「ホテルにお越しになるお客様の目的はそれぞれ違います。仕事、バカンス、休暇いろいろです。私たちの仕事は、お客様がなにを求めていらっしゃるかを考え、ひとりひとりにお望みのサービスを提供することです。常に目配りと心配りを心がけ、おもてなしをするようにしてください」
「はい」
 部屋に短い返事が響き渡る。
 朝礼を終えたスタッフは、それぞれの持ち場へ向かった。
 客室係の広大は、空いた部屋から清掃を開始した。ゴミの回収や忘れ物の保管、リネンやアメニティの交換、ベッドメイキングを行う。
 もっとも丁寧に行うのは拭き掃除だ。
 サンセールホテルが引いている温泉の源泉成分には、金属を変色させてしまうものが入っている。気を付けないと、ホテル内の設備や、部屋の水回り品などが黒ずんでしまう。
 広大はひとつの部屋の掃除を終えるのに、およそ三十分かかる。慣れた者はもっと早く済ませられるが、新人の広大にはそれが精一杯だった。
 広大が、担当するすべての部屋の清掃を終えたのは、正午の十分前だった。
 ほっと息を吐く。ホテルの規則で、部屋の清掃は正午までに終わらせねばならない。一分でも過ぎると、三輪からインカムで終了確認の連絡が入る。
 このあいだ、床のひどい汚れに手間取り時間を過ぎてしまったが、そのときの三輪の説教を広大はいまだに引きずっている。三輪は手際の悪さだけでなく、規則を守れない者はホテルマン失格だ、とまで言い放った。自分たちは客の時間を預かっている。一分一秒たりともおろそかにしてはいけない、と三輪は広大を叱った。

プロフィール

柚月裕子(ゆづき・ゆうこ) 1968年岩手県出身。2008年「臨床真理」で第7回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞しデビュー。13年『検事の本懐』で第15回大藪春彦賞を、16年『孤狼の血』で第69回日本推理作家協会賞を受賞。他の著書に『慈雨』『盤上の向日葵』『暴虎の牙』『月下のサクラ』などがある。