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連載
「新 戦国太平記 信玄」
第一章 初陣立志7 海道龍一朗 Ryuichiro Kaitou

「板垣(いたがき)殿はこの和睦を仲介した拙僧の覚悟を問いたい、と」
「さよう」
「拙僧とて、もはや後戻りできる立場にはありませぬゆえ、この一命を賭して武田家のために奔走する覚悟を決めておりまする。特に、晴信(はるのぶ)様の講師として今後の甲斐がいかにあるべきかを一緒に考えてゆき、それを実践するためには、他国への使者を務めることも避けがたいのではないかとも思うておりまする」
「やはり、そこまでの覚悟でおられましたか……」
 信方は何かを思案するように、しばし黙り込む。
 それから、晴信の方に向き直って口を開く。
「若、それがしはどうしても御老師にお訊ねしたきことがありまする。されど、それは若の御耳を煩わせる話になるやもしれませぬゆえ、別室にて、お待ちいただけませぬか」
「板垣、この身は勝手に付いてきたと申したではないか」
 晴信はぎこちない笑みをつくる。
「いないものとして、いかような話をしてもらっても構わぬ。この身はどれほど厭(いや)な話を聞かされても、あたふたせぬと覚悟を決めたのだ。だいたいの予想はついておるゆえ、このまま続けてくれ」
「ふぅうむ……」
 信方は細く長い息を吐く。
「……わかりました。それでは、このまま続けさせていただきまする。いま、この新府に胡乱(うろん)な風聞が流されていることを、御老師はご存じであろうか?」
「晴信様御廃嫡の噂のことにござりましょうか?」
 まるで短刀を抜き放つような岐秀禅師の問い返しだった。
 信方は驚きながらも、動じる姿を見せまいと無言で頷(うなず)く。
 晴信は奥歯を嚙みしめ、二人の話を聞いていた。
「さきほど、『山門の者は平穏の場で問答を鍛えているだけ』と板垣殿は申されましたが、禅における問答とは己の生死と存在意義を賭した師との果たし合いにござりまする。師家の室は、真剣勝負にも似た場。そこに入れば、余計な遠慮や斟酌(しんしゃく)など一切ありませぬ。それゆえ、ここからは禅でいう真面目(しんめんもく)を量る問答とさせていただきまする。御無礼の段は御容赦くださりませ」
 禅における「真面目」とは、人や物事の真価、本来の有様を示す言葉であり、非常に重要な概念だった。
 つまり、岐秀禅師は当人を眼の前にし、歯に衣(きぬ)を着せず晴信の真価について語ると宣言したのである。
「ご長男の廃嫡がまことしやかに囁(ささや)かれているのは、あながち武田の御屋形様だけの御意向ということではなく、そうしたいと思う方々が側におられるということを示しておりまする。拙僧が耳にしたところによりますれば、さような方々は概して『晴信様は器用の仁に非ず』ということを吹聴(ふいちょう)なされ、御次男を担ぎ出そうとなされているとのこと。されど、そのような風評は拙僧からすれば、笑止千万。真摯(しんし)に熟考を重ねる御方を不器用と決めつけるのは愚昧者(おろかもの)の常套(じょうとう)手段にござりまする。拙僧から見ても、晴信様の習得の疾(はや)さには眼を見張るべきものがあり、その深みも申し分ありませぬ。されど、それを他人にひけらかしたり、自慢したりせぬ慎重さを兼ね備えておられますゆえ、表層だけしか見えぬ方々は、得てして本質を見誤ってしまいまする。あるいは、誤謬(ごびゅう)を承知の上で、あえて悪い方からしか見ぬということ。それは己の保身を含め、意図した悪評でありましょう」



 
〈プロフィール〉
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう)
1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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