よみもの・連載

信玄

第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)6

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

   五十三 

 春日山(かすがやま)の毘沙門(びしゃもん)堂に陀羅尼(だらに)の連誦(れんしょう)が響いていた。
「……オンチシャナバイシラ、マダヤマカラシャヤヤクシャ、チバタナホバガバテイマタラハタニ、ソワカ……オンチシャナ……」
 長尾(ながお)景虎(かげとら)は朗誦を止め、護摩壇(ごまだん)に焼(く)べようとした松葉を見つめる。
 ――いかん。……まったく没念できぬ。
 小さく溜息(ためいき)をつき、秘行を中断した。
 合戦の前や重大な決断を迫られた時、景虎はこの堂宇(どうう)に籠もり、毘沙門天王を勧請(かんじょう)する陀羅尼連誦を行う。武神の加護を己に宿し、心を鎮めるための秘行だった。
 毘沙門堂は特別の場所であり、春日山城の中で唯一、景虎が一人で思案を重ねられる場所である。
 しかし、この日は心中がささくれ立ち、まったく集中できなかった。
 脳裡(のうり)には、己を煩わす一連の問題が渦巻いている。そのひとつが、家中を二分する内訌(ないこう)に関する事柄だった。
 ――なにゆえ、わざわざ身内で諍(いさか)いを起こし、家臣たちは余を煩わせるのか……。
 景虎にとっては俗事の中でも最も俗な煩悩に苛立(いらだ)っていたのである。
 この頃、魚沼(うおぬま)郡妻有郷(つまりごう)の節黒(ふしくろ)城々主である上野(うえの)家成(いえなり)と、同じ魚沼郡妻有郷の千手(せんじゅ)城々主、下平(しもだいら)吉長(よしなが)の間で領地争いが起きていた。
 それだけならば、魚沼郡に根を張る家臣同士の諍いに過ぎなかった。
 ところが、上野家成と下平吉長を別々の重臣が擁護したため、家中を二分するような対立に発展してしまったのである。
 その重臣というのが、本庄(ほんじょう)実乃(さねより)と大熊(おおくま)朝秀(ともひで)だった。
 本庄実乃は言うまでもなく景虎の擁立にいち早く動いており、軍師兼奉行職としての信任が厚く、家宰(かさい)の直江(なおえ)景綱(かげつな)と並んで側近中の側近として絶大な権限を与えられている。
 その実乃に泣きついたのが、上野家成だった。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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