第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)6
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
二人は本堂に五壇の護摩を設(しつら)え、別れを惜しむように苛烈(かれつ)な行を始める。一心不乱に真言(しんごん)を唱えながら、己の煩悩を宿らせた護摩木を焼いていく。やがて、五つの護摩壇から立ち上る炎で顔が炙(あぶ)られ、火ぶくれになるほど激しい行だった。
こうした荒行が、一晩中続けられたのである。
揺らめく焔(ほのお)に照らされた堂宇に真言だけが厳かに響き続け、朝を迎える頃には二人の顔が真っ赤に腫れ上がっていた。
苦痛を越えて至高の時を迎えた師との行を思い出し、景虎は懐旧の情に浸った。
――思えば、この身にはやはり国主を務めるような才や胆力はなかったのだ。こうまで人間関係というものが煩わしく思えるのだから、人を束ねることに向いていなかったに違いない。所詮、成り行きに流されるまま、今に至っているに過ぎぬ。修行に専心している時の方がどれほど倖(しあわ)せだったか……。
その時、不意にある思いが浮かぶ。
――いっそ出家してしまおうか? さすれば、内訌や縁談に煩わされることもない。
俗世を離れ、再び仏門に戻るという考えだった。
――もしも、また修行ができるのならば、密教を学んでみたい。御師様が授けてくださった五壇護摩のような行をもっと覚えたい……。
そう思い始めると、妄想が止まらなくなり、修行僧に戻った己の純粋な姿を求めてしまう。
――よし、決めた! 出家しよう! それならば、皆も許してくれるであろう。
常人には計り知れない景虎の極端な性向が動き始める。一度、心を決めてしまえば、そこには一切の躊躇(ちゅうちょ)がなかった。
景虎は短刀を取り出し、ばっさりと髷(まげ)を落としてしまう。それから、文机(ふづくえ)に向かい、書状を認(したた)め始める。師の天室光育に出家を告げる文と家臣たちに渡してもらうための隠居願いだった。
裳付衣(もつけころも)に袈裟(けさ)という遊行(ゆぎょう)僧の装束に身を包み、景虎は夜明け前に人知れず春日山城を出る。その足で林泉寺へ向かい、開静(かいじょう)番の雲水に書状を託し、師へ渡してくれるように頼んだ。
それから、坊主笠(がさ)を目深に被り、北陸道を西へ向かって歩き始める。
弘治(こうじ)二年(一五五六)六月二十八日、突然の出奔だった。
――さて、密教を学ぶためにはどこを目指すべきか。台密(たいみつ)の叡山(えいざん)か、東密(とうみつ)の教王護国寺(きょうおうごごくじ/通称、東寺〈とうじ〉)か。あるいは……。
景虎は歩きながら考え始める。
密教とは、言葉や文字で明らかに説いて示す顕教(けんぎょう)に対し、大乗仏教の中の秘儀を伝えるもので、真言密教とも言われている。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。