呆然と立ちすくむ晴信の背に、板垣(いたがき)信方が声をかける。 「若、いかがなされました。かような処(ところ)で?」 傅役(もりやく)に問われた晴信は、しばらく黙り込んでいた。それから、見えないように目尻を拭い、思いつめた顔で向き直る。 「……板垣。もしも、敵方が追走してきたならば、この身は討死(うちじに)覚悟で戦わねばならぬ。不動明王の如く見える焔に、その覚悟を誓っていたのだ」 あどけなさの抜けない顔に泪(なみだ)の跡が見えた。 「ほう、討死覚悟と」 信方は笑顔を作りながら言葉を続ける。 「これはまた、異なことを仰せになられる。さような覚悟をする者は、この板垣だけで充分。海ノ口城の少勢如きが相手ならば、わざわざ若が討死いたすまでもありますまい。よしんば、何か不測の事態がありましても、死ぬのはこの身ひとつでこと足りましょう。若には、もう少し大事な戦の時に真の覚悟をしていただきとうござりまするな」 信方はこともなげに言ってのける。 「されど、この殿軍はそれがしが父上からお預かりした役目だ。さようなわけにはまいるまい」 「なれば、なおさら若が生きて戻らなければ、御屋形様の命に背くことになりまする。殿軍は任せたと仰せになられましたが、御屋形様は『討死覚悟で相手を止めよ』とは申されておりませぬ。骸(むくろ)になって戻るな、さようには仰せになられましたが。総軍の撤退を見届け、しかも己の隊も生還するのが、殿軍の役目にござりまする」 「それは、そうだが……」 晴信は何か言いたそうな顔で口をつぐむ。 「若は平賀(ひらが)玄心(げんしん)がわれらの退陣を知ったならば、今すぐにでも城を打って出るとお考えか?」 「……そのように考え、用心すべきではないのか」 「果たして、そうでありましょうか。おそらく、われらの撤退を知っても、平賀玄心は勇んで追わぬと思いまする。なにゆえならば、あの城に籠もっている者どもは各地からの寄せ集めゆえ、さほどの度胸や武功への欲があるとは思えませぬ。できるならば、何事もなく里へ帰りたいと思っている者が大半なのではありませぬか。この雪の中で追撃に出れば、不意に出会った両軍が死闘となり、敵も生きるか死ぬかの大博打となりまする。よしんば、敵が城から出て、われらを追ってきたとしても、この板垣が立ち塞がり、返り討ちにしてくれるだけのことにござりまする」 信方はそう言い、豪快に笑ってみせる。 時を経るごとに、不安にかられていく晴信を安心させるための誇張だった。 ――たとえ数に勝っていようとも、敵を背にして動く軍勢はもろい。疾風の勢いで真っ直ぐに尻から突き入られれば、倍の数がいようとも太刀打ちできるかどうか……。 それが信方の本音だった。 だが、そんなことを吐露するわけにはいかない。 「それに、われらには信じ難い味方が加わりました。諸角殿と鬼美濃は、稀(まれ)に見る武辺者。その二人の加勢となれば、若を討死させたりいたしませぬ。ご心配召されまするな」 胸板を拳で叩き、信方は断言する。