よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)10

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 翌日の夜、諏訪頼重には純白の装束が差し入れられた。
 明けて七月二十一日の朝、土蔵の重い扉が全開にされる。
「失礼いたしまする」
 原昌俊が中へ入ると、諏訪頼重は手を翳(かざ)し、眩(まぶ)しそうに見上げた。
「御膳をお持ちいたしました」
 甘利虎泰が朝餉(あさげ)の膳を設(しつら)える。
 その隣に、原虎胤が漆塗の銚子(ちょうし)と盃(さかずき)が載った盆を添える。
「こちらは御屋形様よりの御差し入れにござりまする」
「ああ、かたじけなし」
 頼重は憑(つ)きものが落ちたような面相で微かに笑う。
「どうぞ」
 原昌俊が銚子の柄を持ち上げ、頼重の盃に酒を注ぐ。
 ほとんど喋(しゃべ)ることもなく、静かに最後の食事を終えた。
「あと、どのくらい、こうしていられる?」
 頼重の問いに、昌俊が答える。
「日が傾き始める頃までは」
「さようか。……ああ、ひとつ訊ねておかねばならぬことがあった」
「なんでござりましょうや?」
「自害とは……自害とは、どのようにやればよいのだ。見たこともないのだ」
「短刀をお貸しいたしますので、詰腹を切るよりは、喉を突いて自刃なさる方が苦しみが少ないかと。その後、われらで介錯はさせていただきまする」
「ああ、そういうことか。よろしく頼む」
 そう答えてから、頼重は黙って外を眺め、外気の香りを楽しむように残りの時を過ごした。
 陽(ひ)が中天から傾き始めた頃、頼重は水を含ませた白布で全身を清める。真新しい犢鼻褌(たふさぎ)をしめ、原昌俊の手伝いで純白の帷子(かたびら)に着替えた。
 その時、誰に訊くともなく頼重が呟く。
「……なにゆえ、余は武田家を裏切ってしまったのであろうか?」
「それがしには、お答えのしようもありませぬ」
 昌俊の答えを聞き、頼重が微かに笑う。
「それもそうだな」
 鬼面が哭(な)きながら笑っているような表情だった。
 すべての支度を終え、再び土蔵の扉が閉められた。
 蠟燭一本の灯りの中で、諏訪頼重が短刀を手にする。
 原昌俊、甘利虎泰がそれを見守っていた。
 原虎胤は得物(えもの)を抜き、背後で介錯に備えている。
「まいる」
 短く呟き、諏訪頼重は一気に切先を己の喉へ突き入れる。
「がはぁ」
 声を発した刹那、原虎胤の振り下ろす白刃が閃(ひらめ)いた。
 兄の決意を聞かされた弟の諏訪頼高も後を追うと決めおり、この日、自刃した。
 二人の自害が終わったことを聞かされた晴信は、ただ黙って両手を合わせただけだった。
 こうして長きにわたる武田家と諏訪家の争いに幕が下ろされた。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

Back number