第三章 出師挫折(すいしざせつ)14
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「……そんなことは思うておらぬ。そなたを腹違いの妹などと思うたことはない」
「ならば、なにゆえ、頼重様を殺めたのですか!」
「……殺めては……おらぬ」
晴信は苦しげに首を振る。
「ならば、なにゆえ、寅王丸を奪おうとなさるのですか!」
「……奪うのではない。……寅王丸を諏訪の者たちに新たな惣領と認めさせねばならぬ」
「頼重様が生きておられるならば、まだ寅王丸が惣領になる必要などないではありませぬか」
「だから、先ほども申した通り、頼重殿は蟄居により、すでに諏訪の惣領ではなくなっているのだ。かの地が治まってくれねば、武田家も困る。一門を守らねばならぬ兄の立場を察してくれ」
「……勝手なことを申されまする。武田家を守るためならば、われらが引き裂かれ、苦しめられることも構わぬのですか?」
「違う。そうではない」
「武田家など……。武田など」
妹の言葉を遮り、晴信が叫ぶ。
「禰々、それ以上言うてはならぬ!」
兄に一喝された禰々は、蒲団の上に突っ伏し、再び声を上げて哭き始める。
その姿を、晴信は苦い表情で見ていた。
武田など、滅んでしまえばいいのに!
そんな言葉が脳裡(のうり)をよぎる。
――そこまで禰々に言わせるわけにはいかぬ。今は気鬱のせいで、己を見失っているだけなのだ……。
晴信は己に言い聞かせていた。
すると、突然、哭き声が止む。
禰々は枕下から何かを取り出し、ゆらりと立ち上がる。
「……寅王丸のところへ行かねば。……あの子を守らねば」
譫言(うわごと)のように呟いてから、おぼつかない足取りで歩こうとした。
「禰々、待て」
晴信も弾かれたように立ち上がり、妹を制止する。
「まだ、外へ出られる軆ではない」
「お退きくださりませ、兄上。わらわは寅王丸のところへ行きまする。あの子を連れ、頼重様を探さねば」
そう呟きながら、亡霊のような虚(うつ)ろな瞳で歩を進めようとする。
「落ち着くのだ、禰々」
「……兄上が邪魔なさるのならば……あの子の処(ところ)に行けぬのならば、禰々はここで死にまする」
妹の両手には、いつの間にか簪(かんざし)が握られていた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。