よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)17

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 互いの挨拶が済んだ後、改めて今川の使者、高井実広から丁寧な戦勝の言祝(ことほ)ぎが述べられ、祝賀の品が献上された。
「……わが主(あるじ)、今川義元も、こたびの武田大膳大夫(だいぜんのだいぶ)殿の御手腕にいたく感服しておりまして、武田家が諏訪を統(す)べることは信濃の安定にとっても喜ばしきことであると申されておりました。当家にご協力できることがあるならば、何なりと仰せくださりませ」
 高井実広は満面の笑みで頭を下げる。
「それは有り難き申し入れ。われらはこの後すぐに上伊那へ出張り、謀叛人(むほんにん)の高遠頼継(よりつぐ)を成敗するつもりにござる。さすれば、下伊那辺りが少々騒がしくなるやもしれぬゆえ、くれぐれも義元殿によろしくお伝えくだされ。なるべく遠江の御仕置きの邪魔にならぬよう、気を付けますゆえ」
 晴信は含みをこめた返答をした。
「細やかな御配慮、痛み入りまする。主には、そのまま伝えさせていただきまする」
 両手をついて頭を下げた後、高井実広は話題を変える。
「ところで、武田大膳大夫殿。実は当方からひとつ、お願いがござりまする。これは主からではなく、軍師の太原(たいげん)雪斎(せっさい)からということで、ここに書状をお持ちいたしました」
 懐から書状を取り出し、前方に差し出す。
 躙(にじ)り寄った近習頭(きんじゅうがしら)の教来石(きょうらいし)信房(のぶふさ)がそれを受け取り、うやうやしく主君に手渡した。
 慣れた手つきで書状を開き、晴信は素早く眼を走らせる。一読した後に、隣にいる信方に渡した。
「兵庫助殿、ここには当家に仕官を望んでいる者を紹介したいと記してあるが、それは今川家の家臣であるか?」
 晴信の問いに、高井実広は小さく首を横に振る。
「厳密には当家の臣ではありませぬ。されど、軍師の下で当家のために働いていた者とご理解頂ければ幸いにござりまする。書状にもある通り、その者は太原雪斎の眼に叶(かな)うほど才と能に溢(あふ)れておりますが、残念なことに当家は臣の数が多く、まったく空席がござりませぬ。当人はしっかりとした一門に仕えたいと望んでおりましたので、そろそろ下働きではなく仕官の道を開いてやりたいという軍師の情けにござりまする」
「なるほど。雪斎殿のお墨付きならば、間違いはないと思うのだが……」
「当人は軍師の命を受けて諸国を巡り、当家のために稀少な品の商いなどしていました。その最中に、方々で武田大膳大夫殿のひときわ高き御評判を耳にし、こたびは自らお仕えしたいと申し出ました。姿形(なり)は少々変わっておりますが、実に多才な者であり、名を山本(やまもと)菅助(かんすけ)と申しまする」

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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