第三章 出師挫折(すいしざせつ)20
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「そこまで存じていたか」
信方は原昌俊に目配せする。
「さすがに今川(いまがわ)家のために諜知(ちょうち)を行っていただけのことはあるな。中へ入り、戸を閉めよ」
昌俊が少し呆(あき)れたような顔で命じた。
「……有り難き仕合わせにござりまする」
菅助は足を引き摺りながら室内へ躙(にじ)り入る。
跡部信秋は仏頂面で戸の外を覗(のぞ)き、人がいないことを確かめてから戸を閉めた。
「菅助、そこまでわかっていて、そなたに何か考えはあるか?」
信方が特異な新参者にあえて訊ねてみる。
「いいえ。皆様のお考えは、すべて的を射ておられると存じまする。ただし、御二方を穏便に引き離すのが最善という前提に立てば、ということにござりまする」
「なんだ、ずいぶんと含みのある言い様だな」
原昌俊が皮肉な笑みを浮かべて言葉を続ける。
「その前提をなくせば、もっと良い策があるというならば申してみよ」
「良い策はありませぬ……」
そう言いながら、菅助は乱杭歯(らんぐいば)を覗かせて笑う。
「……されど、毒を含んだ策ならば、ないこともありませぬが」
「毒を含んだ策だと……」
昌俊は疑念を含んだ視線を向ける。
「申してみよ」
「はい。では、申し上げまする。御二方を引き離さねばならぬのは、その娘が諏訪頼重殿の子だからに他なりませぬ。御屋形様がいくら想いを寄せられても、相手が父の仇と思うてしまう恐れがある以上、御側におけば不測の事態が起きぬとも限りませぬ。家中でも諏訪頼重殿の娘を側室にするという話が出れば、ほとんどの重臣の方々が反対なさるでありましょう。それに側室を迎え入れるなどという話が出れば、仲睦まじくおられる正室の御台(みだい)様との間に諍(いさか)いが起きるかもしれませぬ。御屋形様やわずかな側近だけで、それを強行すれば、家中に不信の種がばらまかれることになりましょう。つまり、何ひとつ良いことが起きそうにはないと。さようにお考えになったからこそ、皆様方が密かに会合を開かれておられたのではありませぬか」
菅助の言葉に、昌俊が苛(いら)ついたように答える。
「それがわかっておるならば、そなたの策を早く申せ」
「お待ちくださりませ。順に話を進めねば、毒が毒のままで終わってしまいまする」
「なんだ、それは?」
「毒を煎じて薬となす。世の中には、そのような秘伝もありまする。御二方を引き離すという案は至極まともであり、最善と思われまする。ただし、それは御側に仕える者にとってということでありましょう。果たして、それで御屋形様は満足なされますでしょうか。確かに、その娘が京で出家したいと申せば、御屋形様は納得せざるをえず、様々な想いを封じながら、側に置くことをお諦めになると思いまする。なにゆえならば、御屋形様が恐ろしく真面目で聡明な御方だからにござりまする。理屈で己を封じることもできる器量をお持ちだからでありましょう。それがしは竜王鼻の治水に携わり、御屋形様の恐るべき真面目さと聡明さを心底から痛感いたしました。あれは凡人に構想できることではありませぬ。さような器量をお持ちの御方が、理屈では禁忌にも等しいとわかっている相手に想いを寄せておられる。あれほどの聡明さをもってしても止められぬ想いが、今の御屋形様から溢(あふ)れそうになっているのではありませぬか。それを封じることだけが、果たして正しい策なのでありましょうか?」
菅助の熱弁に、三人は聞き入っていた。
確かに、思い当たることもあった。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。