第五章 宿敵邂逅(しゅくてきかいこう)8
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「承知いたしました」
「信綱、そなたはこの策を各所に伝えよ」
「御意!」
真田信綱が頭を下げる。
「さて、景虎がどう動くか、見物であるな」
晴信は腕組みをし、口辺で笑った。
そして、弘治三年(一五五七)七月三日、信繁は二千の軍勢を率いて深志城を出立し、白馬村の飯森城へ向かう。
そこで飯富昌景と合流した後、翌日、一気に小谷村の中土へ出る。大熊朝秀を先鋒(せんぽう)、飯富昌景を先陣大将として四日の深夜から城攻めを敢行し、七月五日の午前には小谷城を落とす。
籠城した飯森盛春は討死し、飯富昌景が救援に駆けつけた小谷衆の山岸豊後守(やまぎしぶんごのかみ)を討ち取る。武田勢はそのまま小谷衆の残党を追い、越中越後との国境まで軍勢を押し出した。
小谷城攻略の一報は川中島の武田勢に伝えられ、小さいながらも戦勝に沸き返る。
しかし、飯山城の越後勢に落城の事実が伝わったのは、七月の下旬であった。
市河藤若の調略は頓挫し、武田勢の援軍により日向城の攻略も進んでいなかった。
景虎は打つ手を見失い、小谷城落城の一報で完全に追い打ちをかけられる。将兵の間にはすでに厭戦(えんせん)気分が広がっており、信濃にこれ以上留(とど)まれば新たな造反が起こる可能性があった。
――叔父上の救援が必要であったにせよ、こたびの出陣は思慮を欠いていたかもしれぬ……。
それが偽らざる景虎の思いだった。
仕方なく春日山城への帰還を決め、飯山城を後にする。
追撃のために動いた武田勢と越後勢後詰(ごづめ)の小競り合いが、水内郡上野原(うわのはら)の髻山(もとどりやま)城近くで起こったが、両軍ともさしたる損害を出さずに物別れとなった。
今回の出兵で、景虎は旭山(あさひやま)城を再興したのみで大きな戦果もなく、かえって莫大(ばくだい)な兵粮(ひょうろう)を無駄にし、将兵の士気を下げるだけの結果となる。
三回目の川中島出兵はその後、景虎と越後勢に想像以上の打撃をもたらしてしまった。
逆に、晴信は己の策通りに事を進め、まさに「戦わずして勝つ」という成果を上げていた。
それを目の当たりにして、最も驚いていたのは北条綱成だった。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。