第六章 龍虎相搏(りゅうこそうはく)
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
馬蹄(ばてい)の音、馬の嘶き、そして、飛び交う怒声。
敵と思(おぼ)しき一団は足許の悪さも意に介さず、泥土を巻き上げながら一気呵成(いっきかせい)に向かってくる。
義元は旗印を確かめようとするが、真っ黒な旗指物が翻っているだけで紋は見えない。
――いかぬ!
太刀の柄に手をかける。
――敵の奇襲か!? 雨が降り、馬から輿に乗り換えた所を狙われてしまったというのか……。
しかも義元は蒸し暑さのために大鎧(おおよろい)を外し、襯衣(しんい)の上に満智羅(まんちら)を着けているだけだった。
「輿を止めよ!」
義元は叫びながら輿の簾(すだれ)を巻き上げ、弾かれるように外に飛び出す。
素早く愛刀、左文字(さもんじ)を抜き払った。
低くたれ込めた曇天を見上げながら、雨上がりの泥濘(でいねい)の上で踏ん張る。湿った空気が冷汗と混ざり合って首筋にまとわりついていた。
黒煙のようにも見える騎馬隊が、泥を跳ね上げながら近づいてくる。
――騎馬が相手ならば、槍(やり)か!?
そう思って辺りを見渡したが、奇襲された味方は動揺し、算を乱している。
逃げ始める荷役足軽や雑掌さえいた。
投げ捨てられた二つ引両と今川赤鳥(あかどり)の旗指物が泥にまみれている。
義元は口唇を嚙(か)みしめながらそれを見た。
「迎え撃つぞ!」
周囲に残る旗本衆に命じる。
すると、別の方角からも、騎馬隊が現れる。
新手の一団だった。
その疾(はや)さに目を奪われながら義元は身構える。
しかし、泥濘に滑り、足許が危うい感覚にとらわれた。
先頭を走る黒い騎馬武者が、義元の姿を見定めたかのように煌(きら)めく太刀を振り上げる。
――おのれ! 下郎めが!
義元はその一撃を凌(しの)ごうとして目を凝らす。
重い雨雲が早い気流に流されて裂け、天の傷口から数条の細い光が射し込む。
無情な陽光が騎馬武者の白刃を凶暴に煌めかせ、その反射を直に受けた義元は思わず眼を背ける。
それでも、敵の姿を見定めようとして首を振った。
その刹那、足裏に嫌な感触が走り、踏ん張っていた右足が滑る。
黒馬が嘶きを上げながら、すぐそこまで迫っていた。
- プロフィール
-
海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。