第二回
川上健一Kenichi Kawakami
「それで遠足の時、学校を出発しようとした時に、水沼君、って声がかかったんだよ。誰だと思う? 何と夏沢みどりなんだよ。後にも先にも夏沢みどりが俺の名前を呼んだのはこの一回だけ。俺はもうドデン(びっくり)してしまって、カッと血が上って本当に血管破裂するんじゃないかと思ったぐらいだんだ。きっとゆでダコみたいに真っ赤になってたと思うよ。何? って返事したけど声がうわずってかすれてしまってた。そしたら夏沢みどりが、これ持って、ってはずかしそうに笑っていうんだよ。網に入ったドッチボール三個差し出して。うれしかったなあ。天にも昇る気持ちってああいうことなんだろうなあ。あれこれ遠足に持っていくものがあって、夏沢みどりは学級委員だったから誰かを指名して持たせる係だったんだ。周りにいっぱい男子がいたのに、わざわざ俺の所までやってきたんだよ。夏沢みどりも顔が真っ赤だった。周りのやつらは男子も女子もドデンした顔で呆気にとられていたなあ。何せ誰もが一目置くあの夏沢みどりが、まるで目立たない俺の所までわざわざやって来て、これ持ってっていったんだからなあ。野球の試合頑張ったね、ステキだった、っていっているような感じで、ものすごくうれしかったなあ」
「あー、もしもし。青い思い出に陶酔してべらべらしゃべっているところ、まことに申し訳ありませんが、それって、ただ単にいいようにこき使われたってことじゃないの?」
と小澤が冷や水を浴びせる。
「小澤、水沼さ黙ってしゃべらへでおげ。それしか女のごどで自慢するのはねんだがら」
「ということは山田、お前、あの時のことを覚えているってことだよな」
水沼は勢い込んで山田にいう。誰も覚えていないだろうと思っていたのだ。うれしい証人の出現だ。
「全然。まったく。かけらもありません。お前とはクラスが違うからそんなこと覚えている訳がない」
山田はつれなくいう。
「なんだよ。ガッカリだな。まあいいや。あと記憶に残っているのは、朝、俺がバス停にいると、たまに夏沢みどりと会うんだよ。彼女は俺たちと高校が別で、三本木高校まで歩いて登校してたからな。おはようって笑顔で声をかけてくれて、俺もおはようっていうだけだったけど、あれもうれしかったなあ。今日は会えるかなあって毎朝ドキドキもんだったよ。だけど二年生の夏前だったかな、彼女がパッタリ現れなくなったんだ。三本木高校のやつに聞いたら、北海道に転校したってことだった。落ち込んだよなあ。それで初恋は終わったんだ。片思いの初恋だよ」
水沼はいい終えるとため息をつき、ジョッキに残っているビールを飲み干す。
- プロフィール
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川上健一(かわかみ・けんいち) 1949年青森県生まれ。十和田工業高校卒。77年「跳べ、ジョー! B・Bの魂が見てるぞ」で小説現代新人賞を受賞してデビュー。2002年『翼はいつまでも』で第17回坪田譲治文学賞受賞。『ららのいた夏』『雨鱒の川』『渾身』など。青春小説、スポーツ小説を数多く手がける。