第十一章 富士山周辺の色街
八木澤高明Takaaki Yagisawa
オウム真理教と開拓の村
色街とは直接関係はないが、富士山麓の色街を巡る取材の中で、訪ねておきたい場所があった。オウム真理教のサティアンと呼ばれた、施設があった上九一色村(かみくいしきむら)である。
上九一色村に興味を持ったのは、今回の取材で訪れた梨ケ原と同じく、戦後に入植した満州から引き揚げた人々によって、村が今日の姿となった歴史があるからだった。
同じ富士山麓にあって、梨ケ原は米軍の演習場が近かったこともあり、パンパンたちがやってきて、バラック建ての色街を形成し、その後農地が拓(ひら)かれることはなかった。今では、土地の名前だけが残り、工場やわずかばかりの民家が目につくのみで、農村という雰囲気は感じられない。開拓計画は米軍基地の存在によって立ち消えとなった。片や上九一色村は、オウム真理教に村を占拠されたのち、今はどのような姿になっているのか、気になったのだった。
私が訪ねた日、真っ青に澄んだ空をバックに富士山が見事としか言いようのない山容を見せていた。
斜面に広がる村は、牧草地と刈り取りが終わったとうもろこし畑が広がっている。周囲には酪農家が多い村ということもあり、牛舎やサイロが目についた。
まず私が足を運んだのが、隠れていた麻原彰晃が強制捜査の際に、つまみ出された第6サティアンの跡だった。十年ほど前にも、その場所を訪ねたことがあったが、周囲はほとんど変わっていないように思えた。
サティアンの建物はすでになく、ススキの原の向こうに富士山が顔を出している。斜光を浴びて、透き通ったススキの穂が、秋の風情を漂わせている。サティアン跡には、車が数台止められるスペースがあって、宅配便会社の軽自動車が止まっていた。今から約三十年前には、警視庁による強制捜査で日本中の注目が集まり、騒然となった場所なのだが、今やその面影は残されておらず、ドライバーの休憩場所となっているようだった。
かつてオウムの拠点となった上九一色村。そこ富士ヶ嶺地区には戦後になって満州帰りの開拓団の人々が入った。それまでは、牧草地も畑もない雑木林が広がっていた。
私は、村の開拓時代を知る竹内精一さんという九十三歳の男性と知り合った。彼は満州開拓青少年義勇軍として、戦時中には満州で過ごし、戦後はシベリアに抑留され、帰国後にここの開拓に関わった。
こたつが置かれた応接間で竹内さんと向かい合った。まず話を聞いたのは、竹内さんが経験した満州時代のことだった。
「もともとは軍人になりたかったんですけど、色盲だったんで、厳しいだろうと思って、自分の意思で満州開拓青少年義勇軍に応募したんです。十四歳の時でした。茨城県の内原で三ヶ月間訓練をして、今の北朝鮮の羅津(ラソン)に渡って、満州の二井訓練所に入りました。夏は農作業、冬は勉強と軍事訓練に明け暮れました」
- プロフィール
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八木澤高明(やぎさわ・たかあき) 1972年神奈川県生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランス。2012年『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『日本殺人巡礼』『娼婦たちから見た戦場 イラク、ネパール、タイ、中国、韓国』『色街遺産を歩く旅』『ストリップの帝王』『江戸・色街入門』『甲子園に挑んだ監督たち』など多数。