第六話『民次郎の義(弘前城)』
矢野 隆Takashi Yano
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決行の日の夜が明けた。
山本三郎左衛門に訴状を渡した民次郎たちは、岩木河原にふたたび集まり、ひとまず望みが叶えられたことをみなで喜んだ。そしてそれぞれの村に帰っていった。
心が騒いであまり眠れなかった。
捕り手が来ることを告げる村の若者が妻と娘の消えた家を訪れた時、民次郎はまどろみのなかにいた。飼っている鶏が鳴こうかどうか迷っている早暁であった。
それから躰を洗い、月代(さかやき)と髭(ひげ)を当たり、食事を済ませて民次郎は弘前城からの使者を待っている。その腰にはしっかりと、作太郎から貰った脇差が差さっていた。
「参られました」
家の手伝いをしている婆さまが障子戸のむこうから言った。民次郎は庄屋にだけ許されている股引(ももひき)、木綿羽織を身に着ける。そして目を閉じ、瞼(まぶた)の裏に娘の寝顔を思い描く。
「へば」
娘の隣で妻が笑っていた。
目を開き、障子戸に手をかけ一気に開く。
まだやるべきことは終わっていない。捕えられることは、連判状に名を記した時から解っていた。おそらく他の庄屋たちのところにも捕り手は訪れていることだろう。
肝心なのはその後だ。
慎重に、だが大胆に、すべてを遂行しなければならない。ひとつでも間違えば民次郎の想いはすべて無駄になる。そうなってしまっては死んでも死にきれない。
居室を出て廊下を歩き広間を目指す。父から受け継いだ家には、兄弟と隠居した父もともに住んでいる。父はなぜか民次郎を代庄屋に選んだ。兄を差し置いて自分が庄屋の務めを任されることに民次郎は戸惑ったが、兄は喜んでくれた。お前のほうが相応しいと言い、なにかと力になってくれている。
広間に行くと上座に侍が二人座っていた。兄と弟、そして老いた父が下座で深々と頭を下げている。
「あなた様は……」
左方に座る侍を見て、民次郎は思わず声を上げた。
「頭(ず)が高いっ。控えよっ」
叫んだのは右方の侍のほうだった。
見覚えのある侍は、民次郎が訴状を手渡した男である。山本三郎左衛門。鬼三郎左衛門と恐れられる大物組の組頭だと、後で他の庄屋たちが教えてくれた。
「まずは座れ」
三郎左衛門が賀田門の時とは違い、穏やかな口調で言った。その柔らかい声は、槍を片手にみなを鬼の形相で睨んでいた男のものとは思えない。
民次郎は父や兄弟の前に座り、床板に手をつき頭を下げた。
「藤田民次郎であるな」
三郎左衛門が問う。
「はい」
「某は山本三郎左衛門、こちらは与力筆頭、岩左太夫殿じゃ」
民次郎は腰の脇差を抜き、二人の前に差し出した。それは代庄屋を辞するという証である。
- プロフィール
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矢野 隆(やの・たかし) 1976年生まれ。福岡県久留米市出身。
2008年『蛇衆』で第21回小説すばる新人賞を受賞する。以後、時代・伝奇・歴史小説を中心に、多くの作品を刊行。小説以外にも、『鉄拳 the dark history of mishima』『NARUTO―ナルト―シカマル秘伝』など、ゲーム、マンガ作品のノベライズも手掛ける。近著に『戦始末』『鬼神』『山よ奔れ』など。