青い絵本
桜木紫乃Shino Sakuragi
「好子さんが、そんなに変わることを求めてたなんて知らなかったな」
「生まれ直す、っていう言葉に強烈に惹(ひ)かれたのは確かだったの。生まれ直したつもりでいたら、捨てられちゃったけどさ」
飄々(ひょうひょう)と言ってのけたところで、好子のグラスが空いた。ちいさな彩りおむすびに出汁(だし)を注いだ雑炊の次はデザートで、フルーツに見守られるように盛り付けられたガトーショコラが出て来た。好子は胸までいっぱいだと言って、ショコラを半分残した。
バーに立ち寄り、ホテルのエントランスで揺れている等間隔の炎を眺めながら宿の名が付いたカクテルを一杯ずつ飲んだ。なにもかも静かだったし、自分たち以外に客がいるのかどうか不思議になるくらい、人と会わない。うまく時間と場所を回しているのだろう。
美弥子といえば、そんな気遣いのひとつひとつも宿泊費に入っていることに気が咎(とが)めてしまうくらいには肝がちいさい。
カクテルは、フルーツの香りがする青い飲み物だった。窓の外の炎を見ていると、いっそう「今」が遠いところに在るような気がしてくる。記憶が遠くへ運ばれて、美弥子は好子の娘だった日々に戻ってゆく。
「ミヤちゃんとは、今までどんな手紙もメールも、現在とそれ以降の話しかしてこなかったよね」
「言われてみれば─意識的にではなかったろうけれど」
「そのミヤちゃんが、わたしが人生塾に入った理由を訊ねたんだよ、さっき」
なにか悪いことをしたような気持ちになり「ごめん」とつぶやいた。訊くなら今日だろうと思った気持ちのすぐそばに、もしかしたらの悪い想像がある。好子に見透かされた思いの裏側には、今以降の話をすることに畏れがあったからだった。
「ご覧のとおりなの。この体はもうそんなに長くない。自分なりに期限を切って考えたんだけれど、絵を描く体力は残ってないみたい。だから、これはお誘いじゃなくてお願いなの」
うん─自分の耳に入るか入らぬかの声で応える。現実は、謙遜している時間すらもったいないのだった。
「再発してからは、早いものねえ。絵本はなんとしても完成したものを見てからと思っているから、時間がなくて申しわけないんだけれど、五月いっぱいでお願い出来ないかしら」
三か月─
アシスタントの仕事のほかに、昼夜を惜しまず進めなければ間に合わないだろう。好子の本はページ割りにもよるのだろうが多くて三十、少なくても二十四枚は必要だ。
「もう、お話は出来ているんですか」
カウンターに両肘をついて支えていた顎をこちらに向けて、好子が「もちろん」と笑う。絵本作家たかしろこうこは、あとは絵を探すばかりにして、最後の旅にやってきたのだった。
「アシスタント仕事のおおかたは細かな線ばかりなの。色の感覚が鈍くなっているかもしれない。使ってこなかった筋肉が必要だよね」
「そこは心配してないの。今のミヤちゃんが思う色を使ってちょうだい。湖の色が変わるように、人だって変わってゆくし、時間が経てばどんな鮮やかな色も褪(あ)せて、心になじんでゆくものよ」
好子らしい言い回しだ。美弥子のグラスが空いたところで、部屋に戻った。
- プロフィール
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桜木紫乃(さくらぎ・しの) 1965年北海道生まれ。2002年「雪虫」で第82回オール讀物新人賞を受賞。07年同作を収録した単行本『氷平線』でデビュー。13年『ラブレス』で第19回島清恋愛文学賞、同年『ホテルローヤル』で第149回直木賞、20年『家族じまい』で第15回中央公論文芸賞を受賞。他の著書に、『硝子の葦』『起終点(ターミナル)』『裸の華』『緋の河』など。近刊に『俺と師匠とブルーボーイとストリッパー』がある。