-短編ホテル-「青い絵本」

青い絵本

桜木紫乃Shino Sakuragi

 好子は少し疲れたと言ってベッドに横になった。乾燥が気になるので、ベッドサイドに水を入れたコップを置く。
 酔いが半分醒(さ)めたところで、ひとりでテラスの露天風呂に入った。どこまでも体にまとわりついてくるような、ぬめりのあるお湯に浸かる。湯から出ている部分が氷点下なので、湯あたりも遠い。絶えず注いでくる湯の音に、宿の外にあるあれやこれやを流してみたくなる。
 母親か─
 親の死期が近いというのは、こんな気持ちだろうか。美弥子はぬめるお湯を手のひらに掬(すく)っては指を広げた。会ったことも会いたいと思ったこともない実の母は、生きているのかどうかさえ分からない。
 父の言う「生まれ直す」が実際にあることならば、と思った。一緒に暮らした時間はたったの三年だけれど、共有してきた時間は実の父親よりも長い。親よりも長い時間、好子は美弥子を見てきたのだった。
 湯船の真ん中で立ち上がってみた。湖面に満月が光を落としている。光は白く、辺りは黒い。青は、どこにあるんだろう。瞬く間に外気が体を冷やしてゆく。美弥子は再び湯に体を沈めた。
 翌日、朝食のあと部屋に戻った好子が、ソファーに座り、革張りのテーブルに角封筒を置いた。
「ページ割りもしてあります。気負わないで、楽しい気持ちで描いてちょうだい。たぶんそれが正解だから」
 窓の向こうには、何色もの青をたたえた湖がある。ラグに膝を崩していた美弥子は、正座し直して原稿の入った角封筒を受け取った。
 クリップでまとめた紙の束は三十枚あるかないかの薄さだ。タイトルを付した表紙には、手書きで「あお」とあった。姿勢を正し一枚ずつ目を通す。

 あなたは しっているのだ
 あおい あおい
 みずうみのむこうぎしを

 あなたは しっているのだ
 ほそい ほそい
 みちのむこうにあるせかいを

 あなたは しっているのだ
 あさひの のぼるまえ
 どんなにせかいが しずかなのかを

 あなたは しっているのだ
 こころ やすらぐ
 ひとりのたびを

 知っている、から知っているだろうか、へと冒頭の一行は変化してゆく。心を移ろわせてゆく介添人のように、たかしろこうこの問いは続く。そして最後のページだ。

 あなたは しっているのだ
 こころと こころの
 まじりあう こうふくなしゅんかんを

 静かに、心の介添えとしての立ち位置を崩さず、彼女が最後の一冊と決めた「あお」の全文を読み終えたとき、既に美弥子の頭の中には水彩のあらゆる青に分類される色番号が浮かんでいた。

プロフィール

桜木紫乃(さくらぎ・しの) 1965年北海道生まれ。2002年「雪虫」で第82回オール讀物新人賞を受賞。07年同作を収録した単行本『氷平線』でデビュー。13年『ラブレス』で第19回島清恋愛文学賞、同年『ホテルローヤル』で第149回直木賞、20年『家族じまい』で第15回中央公論文芸賞を受賞。他の著書に、『硝子の葦』『起終点(ターミナル)』『裸の華』『緋の河』など。近刊に『俺と師匠とブルーボーイとストリッパー』がある。