青い絵本
桜木紫乃Shino Sakuragi
筆を握ったときに、ベストなものを手に取っているような、根拠のない自信も立ち上がってくる。
この絵本は、好子の遺言なのだ。
二度読み返しても、その印象は変わらなかった。変化があったとすれば、青から蒼(あお)、碧へと体の内側で複雑な色合わせが始まっていることだった。美弥子は原稿の束を留め直し、もう一度手書きの表紙を見た。
「あお」
ふたりのあいだに、いつよりも静かな時間が横たわっている。美弥子の静けさは、母を知らず、父を遠いところへ置いてのものだ。好子の穏やかさは、咎めるわけでなく、赦(ゆる)すでもなく、ただ美弥子を「ひとりにしない」ことに注がれ続けている。
「五月まで、だったね」
「早いのはぜんぜん構わないよ」
引き延ばしたら、そのぶん生きていてくれるのだろうか。それなら何年かけたっていい。美弥子はほんの少しの夢をみて、夢を現実にするため、描くことにした。往く(ゆ)場所は湖の向こう岸だ。
湯に体を預け、スイーツに合うシャンパンを飲み一日、空とともに変化する湖の色を眺めて過ごした。好子は上機嫌で、つられて美弥子も朗らかだ。話しながら笑えるところを無意識に探していた。
また、山の端があかね色に染まり始める。どちらともなく、ふたりテラスの露天風呂に浸かった。
「人生最高の贅沢ねえ」
好子がため息交じりにつぶやいた。
「相手が必要な贅沢ですねえ」と返した。
温まってゆく体に、好子の書いた一行が沁みてゆく。
あなたは しっているのだ─
湯船の中の、一段高くなったところに腰かける。二の腕から上が湯から上がる。熱を溜めた体の芯はなかなか冷めない。
好子が言った。
「描き上がるころには、ミヤちゃんの世界が変わってる、きっと」
「うん、そんな気がする」
昨夜と同じく、月はただ青かった。
人生最後の旅を終えた好子は、空港から真っ直ぐホスピスへ向かうという。
「長くお世話になっている版元が、ここなら大丈夫って紹介してくれたところなの。蓄えはぜんぶそこで遣いきれるみたい。身寄りもないし、手続きさえ済ませておけば身仕舞いはわりと簡単。連絡先は担当者なの」
だから、いなくなったときは編集者から連絡が行くけれど気にする必要はないのだという。面倒はかけないつもり、と言われると「わかった」としか応えられない。ここから先はもう、好子の美学に付き合うしかないのだろう。
- プロフィール
-
桜木紫乃(さくらぎ・しの) 1965年北海道生まれ。2002年「雪虫」で第82回オール讀物新人賞を受賞。07年同作を収録した単行本『氷平線』でデビュー。13年『ラブレス』で第19回島清恋愛文学賞、同年『ホテルローヤル』で第149回直木賞、20年『家族じまい』で第15回中央公論文芸賞を受賞。他の著書に、『硝子の葦』『起終点(ターミナル)』『裸の華』『緋の河』など。近刊に『俺と師匠とブルーボーイとストリッパー』がある。