-短編ホテル-「青い絵本」

青い絵本

桜木紫乃Shino Sakuragi

 幼いころから、聞き分けのない子だと言われたことはなかった。いつも、受け容れて受け容れて、体から流して生きてきた。ここで一度くらい、わがままを言ってみるのもいいだろう。美弥子は「一度、ホスピスを訪ねてもいいだろうか」とつぶやいた。
「そうねえ、気が向いたら」
 好子は知っているのだ、心安らぐ、ひとりの旅を─

 美弥子は札幌に戻り、その足で画材店へと向かった。新しい絵筆と絵の具とスケッチブック、そしてキャンソンの水彩画用紙を何束か買う。両手に画材を抱えてマンションに戻ると、見慣れぬ文字の封筒が届いていた。差出人は、「S出版児童書部 小澤理加」とあった。
 暖房の目盛りを上げて、カーテンを開いた。たった二日空けただけなのに、埃(ほこり)のにおいが立ちこめている。空気を入れ換え、食卓椅子に腰を下ろし手紙を読んだ。

 ─既にお聞き及びとは思いますが、たかしろ先生のお体は現在休養を欲しています。わたくしたちも先生のためにできる限りのことを、と思い動いて参りましたが、あまりお役に立てることもなく申しわけなさでいっぱいです。ただ最後に、娘と(そう表現されておりました)絵本を一冊作りたいとのことでした。それならば、と社長以下全員が先生への協力を惜しまないことで意見が一致しております。お原稿がお手元に渡ったころと思います。改めましてこの度の絵本「あお」のイラストをご依頼申し上げます。先生はいつまでに、と仰(おっしゃ)ったでしょうか。これは本来聞き流していただくところなのですが、なんとしても先生に完成した一冊をお届けしたく思います。我々の作業をぎりぎりにしてもやはり四月末までに初稿をお願いしたく、どうかよろしくお願い申し上げます。ご不安、迷いなどございましたら、いつでもわたくしにご連絡くださいませ。精いっぱいのサポートをいたします。

 手紙に添えられていた名刺を、作業場のピンボードに留めた。
 最後まで絵本作家でいることを選んだひとの「娘」になる。そう決めたあとは不安も迷いも─とにかく立ち止まっている暇はなくなった。
 二十四時間を自分のために使えるのは、一か月間、三月いっぱいだ。削れるものは睡眠時間と決めてからの一か月、美弥子の生活は昼夜がどこにあるのかわからなくなった。思い浮かべるのは、好子とふたりで眺めた湖と空の色だ。山の陽(ひ)は陰るのも早い。表情を変えるごとに、残された時間が迫ってきた。
 仮眠、作業、食事、作業。四時間通しで眠ったあとは、二十時間通しで作業をする。テレビを眺める時間も、音楽を聴くことも、映画館に足を運ぶことも、スーパーへ行くこともほとんどなくなった。

プロフィール

桜木紫乃(さくらぎ・しの) 1965年北海道生まれ。2002年「雪虫」で第82回オール讀物新人賞を受賞。07年同作を収録した単行本『氷平線』でデビュー。13年『ラブレス』で第19回島清恋愛文学賞、同年『ホテルローヤル』で第149回直木賞、20年『家族じまい』で第15回中央公論文芸賞を受賞。他の著書に、『硝子の葦』『起終点(ターミナル)』『裸の華』『緋の河』など。近刊に『俺と師匠とブルーボーイとストリッパー』がある。