-短編ホテル-「青い絵本」

青い絵本

桜木紫乃Shino Sakuragi

 ついこの間まで身近にあった他人との関わりも、別れもすべて棚上げされている。イラストがすべて出来上がってからゆっくり振り返ればいい。仕上がったときはもう、なにもかもがどうでもいいことになっていたにしても。
 心の棚は便利な場所で、美弥子を苦しめもしないし救いもしない。ただ便利な場所として視界の斜め上にあった。棚上げが便利なのではなく、目の前にある「やらねばならぬこと」が生きる救いなのだ。
 一ページにつき十枚のスケッチと色入れをして、使えそうなラフが一枚あればいい方だった。ぴたりと文章に寄り添うようなイラストにするには、黄金の配置がある。その高みに向かっているとき、美弥子の裡(うち)は無色透明で一切の濁りがなかった。
 取り憑かれたように「あお」と格闘しながらも、ときどき訪れる解放感に気づくことがあった。それが一枚の完成であると気づいたところで、シャワーを浴びるようになった。熱い湯を浴びると、一度丸まった感覚が復活して尖(とが)る。
 ラストのページまで走りきった日の夜明け、太陽が青く見えたので、美弥子は満足した。三月が終わり、窓の外にはもう雪がなかった。
 すべてのイラストが乾き、マスキングテープを外して四隅が現れたところで、美弥子はS出版の小澤理加に電話をかけた。
「ひととおり、描き上げました。一ページにつき、三枚まで絞り込んであります。お時間のあるときに、見ていただきたいのですが」
 電話の向こうの小澤は一瞬の間を空けて礼を言った。見えない場所にいる美弥子にさえ、腰を折った気配が伝わりくる。一か月で出来る仕事ではなかったはずだ、と言われ美弥子は黙った。
 出来る出来ないの判断はやってから、と思えた理由は好子が持った時間の少なさである。急ぐほどにそれを認めることになるのだが、急がねばならないと、時間が美弥子に警告するのである。
 小澤理加が静かに言った。
「一緒に、たかしろ先生の元にお持ちしませんか」
 移動にかかった費用は領収書をお持ちください、と彼女は言った。
 翌日、緩衝材で梱包(こんぽう)した絵をいちばん大きなバッグに詰めて、美弥子は羽田に降り立った。到着ロビーに現れた小澤理加は、声の若さとは印象が異なって、美弥子よりもひと回りは上に見えた。丁寧な挨拶に頭を下げ通したあと、駐車場に停めた車へと乗り込んだ。
「電車ですと少し不便な場所に在るんです。神奈川の人里を離れたところなんですよ。うちの会社の先代もそちらにお世話になったんです」
 車内にはギターとピアノのアンサンブルが流れている。小澤理加は決して多弁ではないが、思い出すままぽつぽつと「たかしろこうこ」との時間を話して聞かせた。美弥子の知らない好子の姿が浮かび上がる。
 穏やかで優しいひとだけれど、そればかりでもなかった仕事への取り組みかた、強情なところ。好子との日々が小澤理加に与えたものは、ここにきて更新され「潔い幕引き」へと変わりつつあるのだという。

プロフィール

桜木紫乃(さくらぎ・しの) 1965年北海道生まれ。2002年「雪虫」で第82回オール讀物新人賞を受賞。07年同作を収録した単行本『氷平線』でデビュー。13年『ラブレス』で第19回島清恋愛文学賞、同年『ホテルローヤル』で第149回直木賞、20年『家族じまい』で第15回中央公論文芸賞を受賞。他の著書に、『硝子の葦』『起終点(ターミナル)』『裸の華』『緋の河』など。近刊に『俺と師匠とブルーボーイとストリッパー』がある。