-短編ホテル-「聖夜に」

聖夜に

下村敦史Atsushi Shimomura



2008年12月25日午後6時40分
 マリカ・サントスはホテルを見上げると、委縮した。入り口上部の看板には、流麗なアルファベットで『Victorian Hotel』と書かれている。
 ヴィクトリアン・ホテル──。
 一体何階建てだろう。
 目で数えていく。
 七階──。
 本当にここなのだろうか。フィリピンの貧しい地区から逃げるようにやって来た二十二歳の女にはあまりに不釣り合いで、興奮よりも恐怖を覚えた。
 入ったとたん、拘束されそうに思える。観光ビザで正規に入国しているにもかかわらず、そんな妄想に歯止めがかからない。異国の警察や入管は未知で、怖い。
 マリカは恐る恐る足を踏み出した。
 出入り口の前に立つ制服姿の男性がにこやかな笑みを見せ、「ようこそ、お客様」とドアを開けた。
 物語の中のお姫様のように扱われ、マリカは戸惑った。
 この二年間は常にモノのように扱われてきた。自分の身体(からだ)はお金に代える道具だった。
「……アリガト、ゴザイマス」
 日本語を返し、ホテルに踏み入った。
 そこは夢の国だった。艶やかに輝く床、流れ落ちる豪奢(ごうしゃ)なカーテンのような扇状の大階段、猫の脚を思わせる茶褐色の花台、古びたキャビネット、装飾的な壁面に濃緑色の落ち着いた王冠模様の壁紙──。
 マリカは目を瞠(みは)った。
 これが日本の一流のホテル──。
 エントランスロビーには赤黒い数人掛けのL字形ソファが向かい合うように配置され、花瓶が置かれた丸形のガラステーブルを囲んでいる。利用客たちが談笑していた。
「─困りましたわ」お姫様を連想させる上品な花柄のワンピースの上に赤色のファー付きコートを着た女性が、対面の中年男性に話しかけている。「すぐにでも売却してください」
「しかし、それでは損が出ますよ」
「抱えていても損害が増えるだけですわ」彼女は左手でコーヒーカップを取り、口に運んだ。人差し指には大きなダイヤの指輪が嵌(は)められている。「被害は最小限に抑えるべきでしょう?」
「そうですね、社長」
「じゃあ、後はお任せしますわ」
 会社社長と部下なのだろうか。
 他の利用客たちの馴染み方・・・・を見ると、自分が不釣り合いな場所に迷い込んだのではないかという不安に苛(さいな)まれる。

プロフィール

下村敦史(しもむら・あつし) 1981年京都府生まれ。2014年に『闇に香る嘘』で第60回江戸川乱歩賞を受賞し、デビュー。他の著書に『生還者』『失踪者』『告白の余白』『黙過』『刑事の慟哭』『絶声』『ヴィクトリアン・ホテル』『白医』など多数 。