聖夜に
下村敦史Atsushi Shimomura
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2008年12月25日午後8時30分
岡野(おかの)はエントランスラウンジ内に目を配っていた。今年で三十八歳になる。『ヴィクトリアン・ホテル』のベルマンとして、十年以上、客をもてなしてきた。
手助けを必要とするお客様の動向を察し、さりげなく──差し出がましく感じさせないよう──声をかけるのだ。どのような要望にも否定や拒否をせず、まずはしっかり話を聞き、可能な限り応じる。常に最善で応える。それが『ヴィクトリアン・ホテル』のベルマンとしての矜持(きょうじ)だった。
午後八時半──。
窓ガラスが闇に染まったころ、エントランスラウンジのソファに腰掛けている一人の中年男性の姿が気にかかった。先ほどから──一時間以上前から、何もせず、打ちひしがれたようなたたずまいで座り続けている。
待ち合わせにしては、左手の腕時計を確認することもない。ただ、ときおり出入り口に目を向けている。
待ち人──か。
具体的な時刻の約束をしていないと推測できる。すっぽかされたのかもしれない。それでもなお、一縷(いちる)の希望を胸に抱き、出入り口を確認せずにはいられない──。そんな感じだった。
岡野は中年男性の席に歩み寄り、自然な立ち振る舞いを意識しながら声をかけた。
「お客様。喉は渇かれていませんか? よろしければ、ハーブティーなど、お持ちしますが」
最後まで言い終えてから、そこで初めて自分に話しかけられたのだと気づいたかのように、中年男性ははっとした様子で顔を上げた。泣き笑いのような表情を浮かべている。
「あ、ええ、その──」
彼の当惑の理由がそこにないのだと知りながら、岡野は「お代はいただきません。当ホテルからのサービスでございます」と告げた。
中年男性は微苦笑を浮かべた。
「さすがの心配りですね、『ヴィクトリアン・ホテル』は。宿泊するのは初めてなんです」
「そうでしたか。当ホテルへいらしてくださってどうもありがとうございます」
「いえ」中年男性は恥じ入るように視線を逸(そ)らした。「僕の稼ぎじゃ、宿泊できるのは一生に一度かもしれません」
「ホテルのスタッフは一期一会のつもりで、おもてなしいたしております。たった一度きりだとしても、ホテルとお客様の出会いが思い出に残るものであれば、嬉しく思います」
「そう──ですね。僕としては、大好きな女性を失った日として忘れられない一夜になりそうです」
その説明だけでおおよその事情を察し、岡野は共感を込めて小さくうなずいた。
「今日──クリスマスのこの日、僕はある女性と会う約束をしていたんです」中年男性は「いえ」と首を横に振った。「僕が一方的に手紙を残したので、約束というには単なる自己満足で、相手には迷惑なだけだったかもしれません」
「だからここで相手の方を待たれているんですね」
「……はい」
- プロフィール
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下村敦史(しもむら・あつし) 1981年京都府生まれ。2014年に『闇に香る嘘』で第60回江戸川乱歩賞を受賞し、デビュー。他の著書に『生還者』『失踪者』『告白の余白』『黙過』『刑事の慟哭』『絶声』『ヴィクトリアン・ホテル』『白医』など多数 。