-短編ホテル-「サンセールホテル」

サンセールホテル

柚月裕子Yuko Yuduki

「横から申し訳ございません。社長ですがとても多忙で、毎日スケジュールが決まっております。急な予定を入れるのは難しいと存じます。少々お時間をちょうだいしてもよろしいでしょうか」
 水野の要求を受け入れるような返答をする三輪を、宮田が驚いたように見る。なにか言いたそうに、三輪の脇を肘で小突いた。期待を持たせるようなことを言うな、と言いたいのだろう。
 しかし、三輪は言い直さない。直立の姿勢のまま水野の返事を待っている。
 水野はなにかを探るような目つきで三輪を見ていたが、やがて小さく頷いた。
「わかったわ。私がホテルにいるあいだにどうにかして」
「かしこまりました」
 三輪が深々と頭をさげる。宮田もつられたようにお辞儀をした。広大も急いでふたりにならう。
 四〇五号室を出た宮田は、少し離れた場所で立ち止まり三輪に詰め寄った。
「どうしてあんなことを言ったんだ。よほどのことがないかぎり、現場の問題は私たちで収めなければならない。社長にお伝えできるわけないだろう」
 三輪は毅然とした態度を崩さず、宮田に説明した。
「あの場ではそう申し上げなければ埒が明きませんでした。時間を置けば水野さまも落ち着かれると思いましたし、確かめたいこともあったので話を早く切り上げました」
「確かめたいこと?」
 オウム返しに訊ねた宮田に、三輪は頷く。
「もし私の考えが正しかったとしたら、これはとても難しい問題です。慎重に動かなければなりません」
 ふたりの上司の後ろでずっと黙っていた広大は、久しぶりに口を開いた。
「いまでも充分、難しい問題だと思いますが、それ以上に面倒なことがあるんですか?」
 広大の問いに対し、三輪は怖い顔で答える。
「場合によっては、事件になるかもしれない」
 広大より早く、宮田が驚きの声をあげた。
「三輪さん、それってどういうこと? もしかして、警察の世話になるかもしれないってこと?」
 三輪は宮田に向かって、真剣な声で言う。
「立ち話でお話しできることではありません。誰にも聞かれる心配がないところでお話しします。あと、この問題は東堂(とうどう)さんに相談したほうがいいと思います」
 東堂高志(たかし)は、サンセールホテルの総支配人だ。宮田を含む五人の支配人を統括する立場で、サンセールホテルの社長である小ノ澤秀俊(おのさわひでとし)の秘書と、ホテル全般の相談役を兼務している。
 東堂はいま四十半ばで、社長と年が近い。秀俊が五代目取締役社長に就いたときから、片腕として傍に仕えている。
「たしかに東堂さんには、事情を説明しておいたほうがいいかもしれないな」
 宮田がつぶやく。広大も三輪の意見に賛同した。
「三輪さんの言うとおり、東堂さんのお耳には入れておいたほうがいいと思います。社長秘書の東堂さんなら、社長にこの件を伝えるか伝えないかの判断をしていただけるし、もし三輪さんの言うとおり事件になったら、東堂さんのお力が必要になると思います」

プロフィール

柚月裕子(ゆづき・ゆうこ) 1968年岩手県出身。2008年「臨床真理」で第7回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞しデビュー。13年『検事の本懐』で第15回大藪春彦賞を、16年『孤狼の血』で第69回日本推理作家協会賞を受賞。他の著書に『慈雨』『盤上の向日葵』『暴虎の牙』『月下のサクラ』などがある。