-短編ホテル-「サンセールホテル」

サンセールホテル

柚月裕子Yuko Yuduki

「水野さまの件、いい仕事をしたね」
 広大は意表を突かれた。しどろもどろに答える。
「いえ、私はなにも─むしろ、もしかしたらホテルに多大なご迷惑をおかけしていたかもしれませんし─」
 東堂は毅然とした態度で言う。
「私たちホテルマンは、お客様の心に寄り添う仕事だ。お客様を大切に思う気持ちがなくてはいけない。今回のことはたしかに少々強引だったが、君の気持ちはしっかり水野さまに伝わった。そして水野さまは気持ちよくお帰りになられた」
 東堂は広大に歩み寄ると、肩に手を置いた。
「これからも、がんばるんだよ」
 広大は背筋を伸ばした。
「はい」
 東堂がホテルへ戻っていく。
 広大は水野が去った道の奥を見つめた。
 最初は水野を感情的な客だと思ったが、実際は違った。水野は知的で聡明な女性だった。これからもビジネスで活躍し、きっといい相手にも巡り合うだろう。
 ホテルに戻りかけた広大は、ある考えが頭をよぎり足が止まった。
 経営コンサルタントの水野は、さまざまな分野の客を相手にしている。持っている知識も多岐に渡るだろう。その水野が偽物の指輪に簡単に騙されるだろうか。
 プロの鑑定人ではない三輪ですら、指輪に五百万円の価値はないと見破ったのだ。水野が気づかないわけがない。
 広大は振り返り、いま一度、道の奥を眺めた。
 水野は最初から、社長が渡した指輪は偽物だとわかっていたのではないか。わかりながらも社長を愛していたから、信じようとしたのではないか。
 脳裏に、接客室で水野が一瞬見せた、寂しげな顔が浮かぶ。
 その場に立ちつくしていると、ホテルから出てきた女性が、広大に声をかけた。
「すみません、この近くで子供が遊べるところはありますか。ホテルのなかだけだと退屈みたいで─」
 女性の隣で、まだ幼い子供が指をくわえていた。泣いていたのだろうか。目が潤んでいる。
 広大は笑顔をつくり答えた。
「コンシェルジュがご案内いたします。こちらにお越しください」
 観光案内やタクシー、店の予約などの手配は、フロントのそばに常駐しているコンシェルジュが担当している。
 女性がほっとしたように微笑む。
 広大はその場にしゃがみ、子供と目の高さをあわせた。
「この近くに、ブランコや滑り台がある公園があるよ。お魚が見られる池もある。面白いところがたくさんあるからね」
 子供は顔を輝かせ、にっこりと笑った。
 初夏のさわやかな風が吹いた。
 あたりの樹木が揺れ、枝の隙間から明るい陽(ひ)の光が地面に落ちる。
 広大は胸を張った。
「どうぞ、当ホテルでいい時間をお過ごしください」
 どこかで鳥が、美しい声で鳴いた。

プロフィール

柚月裕子(ゆづき・ゆうこ) 1968年岩手県出身。2008年「臨床真理」で第7回『このミステリーがすごい!』大賞を受賞しデビュー。13年『検事の本懐』で第15回大藪春彦賞を、16年『孤狼の血』で第69回日本推理作家協会賞を受賞。他の著書に『慈雨』『盤上の向日葵』『暴虎の牙』『月下のサクラ』などがある。