第三章 出師挫折(すいしざせつ)9
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「新府と諏訪の連絡役に飯富(おぶ)、それがしの下に駒井(こまい)昌頼(まさより)を付けていただけませぬか。われらの次を担う者たちに、少し責任のある役目を負わせとうござりまする」
信方の申し出に、晴信が頷く。
「それも、よしなに」
「有り難うござりまする」
「そろそろ、約束の刻限か。では、城の受け渡しにまいるか」
晴信は床几(しょうぎ)から立ち上がった。
この日、天文(てんぶん)十一年(一五四二)七月四日、諏訪頼重は桑原(くわばら)城を明け渡し、武田家に降伏した。
こうして晴信が決断した雷撃の如(ごと)き諏訪攻めは、非の打ち所のない成功を収める。翌日、頼重と弟の頼高(よりたか)は甲斐の新府へ護送され、捕縛された重臣たちの詮議も始まった。
新府へ戻った晴信は妹を見舞う前、弟の信繁(のぶしげ)に様子を訊ねる。
「禰々の様子はどうか?」
「諏訪を出た後は、しばらく不安そうにしていましたが、母上と一緒に過ごすようになってから、だいぶ落ち着いたようにござりまする」
「寅王丸(とらおうまる)は?」
「元気にしておりまする。ただし……」
信繁が顔を曇らせる。
「ただし、何だ?」
「……薬師(くすし)が申すには、禰々の産後の肥立ちがよくないようで、食も細くなっているようにござりまする。それで乳の出も悪く心配だと。いま乳母(めのと)を探しておりまする」
「さようか。あまり無理をさせず、のんびりと過ごさせた方がよいな」
「それと……」
「他にも何かあるのか?」
「禰々がしきりに頼重殿の所在を訊ねてきまする。いま何処に居られるのかと。まだ諏訪におられると言ってありますが、いずれは本当のことを伝えなければなりますまい」
「頼重殿と弟の頼高は新府へ来ているが、しばらくは誰とも会わせられぬ。もちろん、禰々であろうともだ。信繁、そのことは内緒にしておいてくれ」
「わかりました。頼重殿は諏訪の桑原城にいることにいたしませぬか」
「そうしよう。では、禰々を見舞うてやろう」
晴信は弟を伴い、禰々のいる母の居室に向かった。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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