よみもの・連載

信玄

第三章 出師挫折(すいしざせつ)9

海道龍一朗Ryuichiro Kaitou

 帰還した兄を見て、禰々は笑顔を創る。しかし、その面にはどことなく不安な翳(かげ)が張りついていた。
 晴信は満面の笑みを浮かべ、つとめて明るく振る舞う。
「禰々。久方ぶりの新府はどうだ。ゆっくりと過ごせているか?」
「はい、兄上様」
「あまり食が進んでおらぬと薬師から聞いたが、何でも好きなものを母上にお願いするがよい。懐かしい食べ物などもあるであろう。産後の肥立ちは、大事だからな」
「……有り難うござりまする」
「さて、では、寅王丸の顔を見せてくれ」
 晴信は禰々を伴い、甥子が寝かされている籐(とう)の籠に近づく。
 寅王丸は産着にくるまれ、安らかな寝息を立てていた。
 そのふくよかな頰を人差し指で触りながら、晴信が囁(ささや)きかける。
「寅王丸、そなたの叔父の武田晴信じゃ。よろしくな」
 顔を触られた赤子はむずかるように軆(からだ)を捩(よじ)った。
 それから、いきなり眼を開く。 
 眼前に見知らぬ漢(おとこ)の顔があったせいか、寅王丸は火がついたように哭(な)き始める。
「……おお、ごめん、ごめん。驚かせてすまぬな」
 晴信は頭を搔きながら、籠から離れる。
 すると、禰々に抱かれた寅王丸はすぐに哭き止んだ。
「哭き声も元気で、なによりだ」
 晴信は苦笑しながら取り繕った。
「兄上様、お聞きしたいことが……」
 妹の言葉を遮るように、晴信が答える。
「頼重殿のことか?」
「はい……」
「それについては、日を改めて話そう。まだ、戦が終わったばかりで、色々と事情が込み入っているのだ」
「……やはり、あれは戦なのでありましたか」
「残念ながら、小笠原の甘言に釣られた諏訪との戦になってしまった。されど、無用に多くの血は流れずに済んだ。頼重殿とは武士同士の話もせねばならぬゆえ、それが終わるまでしばし待ってくれぬか。悪いようにはせぬ。禰々、とにかく今は己と寅王丸の軆だけを案じ、ゆっくりと休むがよい」
「……わかりました」
「では、また近いうちに、そなたらの顔を見に来る」
 晴信は黙ってやり取りを聞いていた大井(おおい)の方(かた)に声をかける。
「母上、禰々をお願いいたしまする」
「わかりましたよ」
 大井の方は笑顔で頷いた。
「信繁、この後、加賀守(かがのかみ)らと話をせねばならぬ。同席してくれ」
「はい、兄上」
 二人は母の居室を後にした。

プロフィール

海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。

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