第三章 出師挫折(すいしざせつ)13
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
それから信方は千五百の騎馬隊を率い、新府を出発する。若神子(わかみこ)城を横目に見ながら逸見路(へみじ)を疾走し、二刻(四時間)ほどで上原城下に到着した。
その勢いを止めず、飯富虎昌を先頭に騎馬隊が怒濤(どとう)の攻撃を開始する。
いきなり現れた武田勢の新手に、矢嶋満清の軍勢が怯(ひる)み、それを見た駒井昌頼も果敢に攻めかかった。
矢嶋満清の軍勢はずるずると諏訪湖畔まで後退した後、藤澤頼親の福与城がある南西へと潰走し始める。
その戦況を確かめた信方は、上野城の軍勢を率いて上社前宮(まえみや)がある宮川の東岸を封じた。高遠頼継の軍勢が現れるならば、その方角からだったからである。
――高遠を追い払ってから、飯富と昌頼に矢嶋満清を追撃させ、福与城を攻め落とせばよい。御屋形様と寅王丸様が到着なされるまでに、厄介事はすべて片づけておく。
信方は鋭い眼差しを宮川の西に向ける。
そこには高遠勢の蹄音(あしおと)が迫りつつあったが、あらゆる面において先手を取った武田勢の備えは万全だった。
その頃、晴信は母親の居室を訪ねていた。
「母上、禰々と話をしにまいりました。容態はいかがにござりまするか?」
「……あまり芳しくありませぬ。戻すことを怖れてか、ほとんど食物を口にせず、可哀想に痩せ細ってしまいました」
「うぅむ……。さようにござりまするか。薬師(くすし)は何と?」
「はっきりした原因はわからず、産後の気鬱ではないかと」
「気鬱とは……」
晴信が口ごもる。
「……薬師も手の施しようがない、ということにござりまするか」
「薬師がいかように申すかわかりませぬが、母には今の禰々が、……難しい話をできるような容態には見えませぬ」
大井(おおい)の方は不安げな面持ちで俯(うつむ)く。
「はぁ、なるほど……」
晴信も困ったように項垂(うなだ)れる。
――禰々と話をする前に具合を確認しようとしたのだが、どうやら状況は最悪のようだ……。
「母上、実はまた諏訪で謀叛(むほん)が起こっておりまする」
声を絞り出す息子を見て、大井の方は哀しげな顔になる。
「寅王丸はいずれ諏訪の惣領となる命運の下にあり、そのことを禰々にもわかっておいてもらわねばなりませぬ。かような時こそ、われらが後盾となり、諏訪をまとめ上げねば。幼いとはいえども、寅王丸はその旗頭にござりまする」
「さ、されど……。寅王丸は幼いどころか、まだ乳飲み子。さような大役が務まるとは思えませぬ」
「寅王丸は乳母に預け、われらが万全の態勢で守りまする。大事なのは、寅王丸を次なる諏訪の惣領と認めさせることにござりまする。それがひいては禰々のためにもなりまする。母上、どうか出陣の前に、禰々と話をできるようにしていただけませぬか」
晴信は深く頭を下げる。
「……わかりました。では、先にわたくしが禰々の様子を見てまいりまする」
大井の方は息子の苦渋を汲(く)み取り、居室から出て行く。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。
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