よみもの・連載

初恋父(と)っちゃ

第十七回

川上健一Kenichi Kawakami

 彼女は笑顔でうなずき、そのままじっと水沼を見つめて口を開かせた。
「初恋の彼女のことを考えたら、忘れていたあの頃のことがいろいろ思い出されるんです。生まれ故郷で過ごしたあの時代に残してきたことがポツン、ポツンと思い出されて、あの時こうすればよかった、こういいたかったと後悔することばかりで、今さらどうしようもないことなのに、居心地が悪くなったり切なくなります」
「昔のことは、楽しかったことよりも寂しかったことや切なかったこと、辛(つら)かったことを思い出しますね。でもため息と一緒に笑えてしまうんです。どうしてなんでしょうね」
 彼女の笑顔にはずっとやさしさがあふれていた。彼女は続けた。「若い時は昔のことを思うことはなかったんですけど、年齢を重ねるにつれて漠然と思うようになりました。忘れていたことが何かの拍子に鮮明に思い出されるんです」
「がむしゃらに生きていた五十代半ばくらいまでは、昔のことを振り返りもしませんでした。歳をとってがむしゃらができなくなったということなんでしょうねえ」
「初恋の方にお会いしたいというのは、何かを告げたいとか、いいたいことがあるということなんですか?」
「いや、それが」
 水沼はいいよどんだ。何かをいいたいなどとは思ったことがない。「もう会えないんだろうなあと思ったら無性に会いたいという思いがつのるばかりで、会ったらこういおうとか、あれもいいたいという思いはまるで浮かんでこないんです」
「さっき昔のことを思うと居心地が悪くなってしまうとおっしゃいましたけど、私も主人が死んでからずっと胸につかえているものがあって、居心地が悪くて仕方がなかったんです。それで私、いってしまいました。愛してるって」
「ご主人に」
「ええ」彼女はクスクス笑った。「亡くなった主人に愛してるっていったことが無かったんです。物静かな人でした。いつも笑って私を静かに見守ってくれていました。だからかもしれません、愛してるって口に出していうのが何だか私たちには似つかわしくないような気がしていい出せなかったんです。口に出さなくてもお互いが愛し合っているというのは分かっていました。主人が死んでからちゃんと口に出して愛してるっていえなかったことが後悔となって、それがずっと胸につっかえていて吐き出してしまいたかったんです」
「それでいったんですね」

プロフィール

川上健一(かわかみ・けんいち) 1949年青森県生まれ。十和田工業高校卒。77年「跳べ、ジョー! B・Bの魂が見てるぞ」で小説現代新人賞を受賞してデビュー。2002年『翼はいつまでも』で第17回坪田譲治文学賞受賞。『ららのいた夏』『雨鱒の川』『渾身』など。青春小説、スポーツ小説を数多く手がける。

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