よみもの・連載

初恋父(と)っちゃ

第十七回

川上健一Kenichi Kawakami

「はい。海で。何故かその時、主人が大好きだった曲を口ずさんでいて、歌い終えてから、愛してる、っていってしまいました。波の音に負けないぐらい大きな声が出てしまったので自分でもびっくりしました」
 といって彼女ははにかんだ。
「周りにいた人はびっくりしたでしょうね」
「遠くの水平線ばかり見ていたので誰かが側にいるなんて気にしませんでした。でも少しして、あっ、恥ずかしいことやっちゃったかもって我に返って見回しました。近くに誰もいなかったのでホッとしましたけど一人で照れてしまいました」
「波に負けないぐらいの声だったらきっと天国のご主人に届いたでしょうね。その歌、聴きたかったなあ。愛してる、かあ。今の若い人は躊躇(ちゅうちょ)なくいえるかもしれないけど、ぼくらの世代は照れ臭くてなかなか口に出していえる言葉ではないですねえ」
「はい。でもいってしまってよかったなとつくづく思いました。主人が死んでから目に見えるもの全てが白黒映像みたいだったんです。でも愛してるっていったらパーッと目の前が明るくなって色鮮やかに見え始めたんです。生きているうちにちゃんというべきだったんです。水沼さんが初恋の人に会いたいというのは、好きだったと彼女にいいたい思いがそうさせるんじゃないでしょうか」
 彼女は笑顔で見つめた。水沼は戸惑い、笑みを返し、考えた。やはり答えは同じだった。
「そんなことは考えもしなかったなあ。無性に会いたいと思っただけなんです」
「好きだ、っていえなかったことがその原動力かもしれませんね。私、主人が死んでから無性に会いたいと思う時があって、それは愛してるって主人にいえなかったという思いが込み上げる時なんです。ですから水沼さんもそうじゃないかと思ったんです」
「どうかなあ。大好きだったけど、好きだって絶対にいえなかったなあ。私の恐竜時代までの全部の先祖の勇気をかき集めたって怖くて到底いえませんでしたね。第一、二人きりになるなんて皆無でしたよ。あ……、そうか、思い出した。一度ありました。彼女が市内の体育大会で学校代表のリレーの選手になった時に。野球部だった私たちは部員総出で大会の裏方をやっていたんですが、アンカーの彼女がスタンバイのために陸上競技場の第四コーナーに向かう途中のフィールドで偶然すれ違ったんです。彼女は緊張して硬い表情だったんだけど、私に気づいて笑顔を向けたんです。彼女は他の学校のアンカーの女子たちと一緒でした。あの笑顔、今でも鮮明に覚えているなあ。それで、あ、いや、こんな話、彼女を知らないあなたにとっては退屈ですよね。すみません、ついベラベラと」

プロフィール

川上健一(かわかみ・けんいち) 1949年青森県生まれ。十和田工業高校卒。77年「跳べ、ジョー! B・Bの魂が見てるぞ」で小説現代新人賞を受賞してデビュー。2002年『翼はいつまでも』で第17回坪田譲治文学賞受賞。『ららのいた夏』『雨鱒の川』『渾身』など。青春小説、スポーツ小説を数多く手がける。

Back number