七 晴れて謹慎が解けた日、晴信は信方に願いを述べた。 「板垣、折り入って頼みがある。これから馬でひと駆けしたいのだが、供をしてくれぬか」 「いかがなされました、若。供のような当たり前の役目を、折り入っての頼みとは……」 「いや、役目としての供ではなく、やはり、改めての頼みなのだ。だから、断ってくれても構わぬ」 「若の頼みを断るわけがありますまい……。行先はいずこにござりまするか?」 「心機一転のために、要害山(ようがいやま)城へ上りたい」 晴信は北の頂きを遠望する。 「それから、積翠寺(せきすいじ)の涌湯(わきゆ)に浸かってみたい」 その言葉を聞き、信方は二年前に要害山城へ上った時の会話を思い出す。 父の勘気を被(こうむ)った晴信の落ち込みようを見かね、涌湯に誘った信方に対し、「板垣(いたがき)、この鬱屈とした悩みのいくつかが解決したならば、晴れて二人で湯に浸かりにくるということでどうだろうか。心おきなく、のびのびと」と答えたのである。 「御意のままに」 信方は頭を下げる。それも二年前の答えと同じだった。 それから、二人は愛駒を駆り、要害山の頂きへ向かう。 玄冬(げんとう)特有の北颪(きたおろし)が吹いていた。 城へと続く急な勾配を駆け上がっていると、乾いた寒風の中に混じる哀しみと同質の芳香がより強く感じられる。それは信方にも、ある既視感を呼び覚ます。 臨月間近となっていた大井の方を守り、要害山城へ向かった時のことである。その日は確か晩秋であったが、なにゆえか、冷たい大気の中に同じ香りの粒を感じ、記憶が鮮明に甦(よみがえ)ってきた。 ――ああ、あの日と同じ匂いだ……。 そう思いながら、手綱をしごいた。 要害山城に着くと、二人は櫓(やぐら)へ登り、しばらく無言で新府を眺める。それぞれの胸に去来する思いは別々だったが、心は見えない絆(きずな)で繋がっていた。 甲斐の国府を遠望しながら、晴信が呟く。 「この前上ってから、さほど時も経っていないのに、ずいぶんと長くここへ来ていなかったような気がする。なにゆえであろうか……」 「それがしも同じにござりまする」 嘘や追従ではなかった。 「きっと、ここは特別の場所であり、頻繁に訪れてはいけない場所だからかもしれませぬ」 信方は静かな声で言う。 「ここに吹く風は不思議だ。何というか、この風に吹かれていると、己の弱さを素直を受け入れられる。館では、頑なに拒んでしまうのに……」 晴信は大きく息を吸い込む。 「……それがしは、少し息苦しくなりまする。なにゆえかは、わかりませぬが」 信方はこれまで誰にも明かしたことのない本音を吐露する。 それからまたしばらく、二人は無言で城下を眺めた。 「では、板垣。涌湯へ参ろう」 「御意」 二人は積翠寺まで下り、門前に駒を繋いでから涌湯へ向かおうとする。