「……踏み止まったというよりも……御屋形様の眼があまりに怖ろしく、まるで虎にでも睨まれたように軆(からだ)が竦みました。まことに、お手討ちにされるのではないかと思い、動けなくなっただけにござりまする。……あれほど剣呑(けんのん)な眼光に射抜かれたことは、未だかつてありませぬ。思い出すだけで、震えが止まりませぬ」 さすがに気丈な侍女頭も、泣きそうな表情になっていた。 「そうだとしても、御屋形様が本気でお怒りになると、われら漢どもでさえ真っ直ぐに眼を見られぬ。よく頑張られたの。ともあれ、大事に至らず、何よりであった」 信方は常磐の度胸を誉める。 ――それにしても、御酒を召し上がり過ぎた時の御屋形様は、近習頭の荻原虎重をもってしても、まったく制止が効かぬということか……。近頃、とみに酒の量がお増えになっているとも聞く。誰かがお諫(いさ)めせねばならぬのだが、皆恐れをなして何も申し上げることができぬ。由々しきことだ。 最近の信虎は評定の場においても、したたかに酔っていることが多く、そうなるとほとんど我慢のきかない状態となる。酗(さかがり)の気さえ感じるほどだった。 酗とはまさに酒乱のことである。 「……板垣殿、普段から御屋形様があのように突然お出でになると考えておいた方がよいのでありましょうか?」 常磐が不安そうな面持ちで聞く。 「かようなことはそうそうにあるとは思えぬ。されど、御屋形様への伺候をお願いし、仕切り直しをした方がよいかもしれぬ。こたびの禍根を残さぬためにも」 「……わかりました」 「これからは、この教来石信房を常に宿直(とのい)番として側に付けますゆえ、何かありましたら、すぐにそれがしをお呼びくだされ。今宵もこ奴が機転を利かし、事なきを得ました。きっと、上手くやってくれます。信房、改めて挨拶をせよ」 「信房とお呼びくださりませ。今後とも、よろしくお願い申し上げまする」 教来石信房は引き締まった面持ちで頭を下げる。 「こちらこそ、よろしくお願いいたしまする」 いくばくか常磐の表情も緩む。 その時だった。 廊下の奥から跫音(あしおと)が響いてくる。 「……かような夜更けに、皆で集まって何事であるか?」 眠そうな声を出したのは、寝間着姿の晴信だった。 「若……」 信方が驚いた顔で近づく。