「いいえ、特段何も。そういえば、虎泰とはしばらく盃も酌み交わしておりませぬな」 「さようにござりまするか」 「虎泰がどうかいたしましたか?」 「いや、何がどうということもありませぬ……。駿河殿が若い頃から備前殿の面倒をみておられたので、未だに昵懇(じっこん)の仲なのかと思いまして」 「ああ、互いに独り身の頃はよくどちらかが倒れるまで盃較べをしておりましたが、今はそうもいかなくなりました。まあ、お役目のこともあり……」 「気の置けない後輩がおられるというのは、羨ましゅうござりまする」 「あ奴は腕っ節も強いが、滅法、酒も強い。どちらかといえば、少し歳の若い宿敵といったところにござる。まあ、その下に兵部(ひょうぶ)という、どうしようもない呑んだくれの荒くれ者も控えておりますが」 信方は飯富(おぶ)虎昌(とらまさ)のことを持ち出して笑う。 「盃も契(ちぎ)りにござるか。羨ましゅうござる……。それがしは酒があまり得意ではありませぬ。御屋形様の御側にいる者としては、呑むわけにもまいりませぬし」 蟒蛇(うわばみ)の主君に仕える近習頭としては、常に素面(しらふ)でいなければならない。 「まあ、そうでありましょうな」 「つまらぬ愚痴をこぼしてしまいました。先ほどの件、確かに承りました。では、失礼いたしまする」 荻原虎重は齢(よわい)四十五であり、ちょうど信方と甘利虎泰の間の世代である。 しかし、家宰(かさい)である父の荻原昌勝に従い、幼少の頃から信虎の近習として仕えていたため、先輩や後輩との関係が希薄のようだった。 ――虎重も昌勝殿の後を継いで家宰になるのであろうが、確かに家中では少し浮いた存在だ。信頼できる近しい先輩や同輩はおらず、下は皆、遥か歳下の小姓ばかり。しかも、目の上の瘤(こぶ)の如く家宰の座を狙うておる上輩がたくさんいる。案外、孤独な立場かもしれぬな。 信方は近習頭の立場をそう見ていた。 ――今度、呑みにでも誘うてみるか。……いや、その前に、虎泰や兵部と仕切り直しをせねばならぬか。 そう思い、頭を搔きながら、信方は役目に戻った。 伺候の件は荻原虎重に預けたが、しばらくしても色よい返事はなかった。 それに反し、晴信と慶子(けいし)の仲は日に日に深まっていく。毎晩、笛の稽古などしながら時を過ごし、夫婦としての絆を固めていった。 いつの間にか、伺候の話が立ち消えになってしまった頃、信方に望外の一報がもたらされる。