第三章 出師挫折(すいしざせつ)7
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
それから晴信の率いる武田勢は若神子(わかみこ)城へ向かう。ここを経由してから二十九日には諏訪へ侵入し、御射山(みさやま)に本陣を置いた。
御射山は八ヶ岳(やつがたけ)山麓にあり、諏訪大社の摂社(せっしゃ)が置かれ、一帯は「神野(こうや)」と呼ばれる諏訪明神の狩場だった。古(いにしえ)よりこの地で行われる御狩の神事は日の本に広がっており、諸国にある御社山(みさやま)、御斎山、三才山などの地名は、ここから勧請されたものである。
上社の祭儀として武芸、競馬、相撲などの競技も行われ、その際に大祝などの神官が参籠する茅萱葺(かやぶ)きの仮屋は「穂屋(ほや)」と呼ばれた。
御射山は諏訪大社の武術信仰と繋がる重要な拠点であり、もちろん晴信もそれを承知の上で本陣としたのである。
武田勢の着陣を聞いた諏訪頼重は茶臼山(ちゃうすやま)本城(高島城)を出て、上原(うえはら)城の南にある矢崎原(やざきはら)に陣を布く。
諏訪勢布陣の一報を聞いた晴信は、跡部(あとべ)信秋(のぶあき)に物見を命じる。
「諏訪勢が布陣した場所を正確に探ってくれ」
「承知いたしました。ついでに、上原城と下社に忍びの者を遣いに出しておきまする」
跡部信秋はすぐに諜知(ちょうち)の手配に走った。
諏訪勢の位置が大地図に示され、御射山の本陣で軍評定が開かれる。これが七月二日のことだった。
「諏訪勢が上原城の手前にいるならば好都合だ。南西から駆け付ける高遠勢が到着すれば、ちょうど敵の横腹を突くことになる。できれば、機を合わせて攻め寄せたいところだが」
晴信が地図を示しながら言う。
それに信方が答える。
「高遠頼継殿には、われらが出立する際に使者を送ってありますゆえ、今頃は諏訪の手前、杖突(つえつき)街道の藤澤の辺りに待機していると思いまする。早馬を飛ばし、諏訪勢の位置を教え、攻め寄せる機を指定すればよいと存じまする」
「さようか。下社と藤澤頼親殿はどうか?」
晴信の問いに、跡部信秋が答える。
「われらと高遠殿が仕掛けましたならば、金刺殿と藤澤殿が下社秋宮(しもしゃあきみや)と岡谷(おかや)宿の二手に分かれ、諏訪勢の逃げ道を塞ぐ手筈(てはず)になっておりまする。高遠殿が到着する予定を知らせておけば、支度に抜かりはないと存じまする」
「して、敵勢の数はどのくらいと見ておる?」
「物見の目算によりますれば、総勢で千五百ほどかと。騎馬二百弱、徒歩の足軽が一千程度だと思いまする。われらの兵力には、まったく及びますまい」
「よし。では、加賀守。上原城の守矢殿は?」
「今は静観の構えにござりますが、もしも諏訪勢が後退し、上原城に入ろうとしたならば城門を閉ざす手筈になっておりまする。つまり、頼重殿はさらに後方の桑原(くわばら)城か、茶臼山の本城へ入らざるを得なくなるかと」
原昌俊が地図を指しながら答える。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。