第三章 出師挫折(すいしざせつ)8
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
諜知(ちょうち)の者を放ち、晴信は逐一そうした動きを監視していた。
すべての状況を的確に摑(つか)みながら、武田勢の先陣が後を追う。
そして、上原城下で高遠勢と合流した先陣の信方(のぶかた)から、晴信(はるのぶ)の本陣に伝令が出される。
報告を受けた晴信は後詰(ごづめ)の一隊だけを残し、残りの総勢を率いて上原城へ向かった。まずは、禰々と子の無事を確認するためである。
晴信の到着を城外で待っていた信方が伝える。
「若、於禰々(おねね)様が守矢殿と一緒に城内で待っておられまする」
「さようか。信繁(のぶしげ)、一緒に来てくれ」
「はい」
信繁も兄の後について上原城へ入った。
広間へ行くと、赤子を抱いた妹の姿が見える。隣には、守矢頼真が付き添っていた。
「禰々、無事でよかった」
晴信は笑顔で近づく。
その声に、はっとしたような顔で妹が顔を上げる。
「……兄上様。それに次郎兄さまも……」
「それがそなたの子か。名は何という?」
「……寅王丸にござりまする」
「さようか。強そうな、良い名だ」
「あ、兄上様、これはいったい……」
禰々が不安そうな面持ちで事情を訊こうとする。
「すまぬな。ここで説明している暇はなさそうだ。そなたと寅王丸は、これから信繁と一緒に新府へ戻ってくれ。母上がお待ちになられている」
「われらが新府へ。……頼重様は?」
上目遣いで長兄の表情を窺(うかが)う。
「残念だが、禰々……」
晴信は真剣な面持ちで言葉を続ける。
「……色々と事情があり、武田と頼重殿は袂(たもと)を分かつことになった。これ以上の戦いを避けるため、これから降参の説得に参る。そなたは心配せずに母上の処(ところ)へ戻っていてくれ。信繁、頼んだぞ」
「はい、兄上。於禰々、一緒に甲斐へ戻ろう」
信繁も笑顔で手を差し伸べる。
二人の兄が発している無言の圧力を感じ取り、禰々は黙って従うしかなかった。
「では、甘利(あまり)の一隊を護衛につけるゆえ、そなたは一足先に新府へ」
晴信が弟に言い渡す。
「承知いたしました」
信繁は引き締まった顔で頷(うなず)く。
この弟もこれまで寄せられた報告を聞き、すでに勝利は動かないと確信しており、己が果たすべき最善の役目がわかっていた。
そして、信繁は甘利虎泰(とらやす)を伴い、妹と子を守りながら、上原城を後にした。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。