第三章 出師挫折(すいしざせつ)8
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
その容赦ない物言いに、諏訪頼重と矢嶋満清の顔から血の気が引く。
近隣の諸国を震え上がらせた甲斐の餒虎(だいこ)。その凶暴な父親を強引に隠居させ、若くして惣領の座に就いた武田晴信と新たな主君を支えると決めた重臣たち。それらの事実を鑑(かんが)みれば、原昌俊の言うことは、ただの脅しとも思えなかった。
――城ごと灰燼(かいじん)に帰す……。あの蛇のような眼を見ると、あながち、はったりだけとも思えぬ。ここで和談を蹴れば、相手の思う壺ということなのか?
頼重は背筋に寒気を感じていた。
「そちらの申し入れはわかった。とりあえず、他の者と内々で話し合いたい。しばし、こちらで待たれよ」
諏訪頼重は顰面(しかみづら)で立ち上がり、矢嶋満清らの側近を連れて別の室(へや)に移った。
そして、入るやいなや、怯(おび)えた声を漏らす。
「……花岡の申していたことは、まことなのか。武田に加えて上社、下社、上伊那の軍勢だと?」
室内を歩き廻りながら、頼重が呟く。
「それがまことならば、この城を囲んでいるのは万を超える兵どころではあるまい。向こうがその気になれば、命が危うい。……ど、どうする……どうすればよい」
「いったん……いったん、腰を下ろしませぬか、頼重様」
矢嶋満清が床几を差し出し、何とか落ち着かせようとする。
「武田晴信が使者を送ってきたということは、家臣どもが何を言おうと、当人は城攻めを逡巡しているということにござりまする。ここはひとまず、それを逆手に取って降参した振りをし、隙を見て小笠原長時殿に助けを求めてはいかがにござりまするか」
その具申を聞き、床几に座った頼重が頭を抱える。
「武田に降れば、囚(とら)われの身となってしまうのではないか」
「そこをうまく丸め込みましょう。囚われの身となっても、諏訪にさえいれば、いずれは脱出の機が見出せまする」
「満清、そなたはどうするつもりだ」
「頼重様と一緒に降りはしますが、蟄居(ちっきょ)する振りをして、それがしが小笠原との連絡役を務め、長時殿に兵をお借りする算段をいたしまする。それが上策かと」
「見込みはあるのか?」
「元はと言えば、この戦(いくさ)は小笠原と武田の争いに端を発しておりまする。いわば、迸(とばし)り。必ず、助けていただけるよう長時殿を説得しますゆえ、いまは辛抱の時かと」
矢嶋満清の言葉に、隣で有賀泰時も頷く。
「うぅむ、あの使者の生意気な物言いは腹立たしいが、ここは堪(こら)えるしかないか……」
頼重は顎髭(あごひげ)をまさぐりながら思案する。
「……色々と考えてみたが、あ奴らの話に乗る振りをし、和議を受け入れるしかないようだな。ただし、本城で蟄居するということを条件に、この城を明け渡すというのはどうか。それならば、諏訪に残ることができる」
「そういたしましょう」
矢嶋満清が賛同する。
「皆、それで異存ないな?」
頼重に問われた他の側近たちも大きく頷いた。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。