第三章 出師挫折(すいしざせつ)24
海道龍一朗Ryuichiro Kaitou
「義元殿、われらも長久保城へ寄せるとして、いつ頃、出立すればよろしいか?」
「晴信殿、長久保への力添えはいりませぬ。それよりも、長久保の手前に沼津(ぬまづ)の千本松(せんぼんまつ)という風光明媚(めいび)な場所があるゆえ、そこで駿河湾の絶景でも眺められてはいかがか?」
「沼津の千本松?」
「さよう。美保(みほ)の松原(まつばら)に勝るとも劣らぬ名所ゆえ、そなたもきっと気に入ると思う。戦がなければ、歌会でも開きたい場所である」
「はぁ……」
「千本松と長久保のちょうど真中に岡宮(おかのみや)という場所があるゆえ、ゆるりと海澨(かいぜい)など眺めた後、そこへ陣を布(し)かれるのがよい」
「ゆるりと?」
「さよう、ゆるりと。われらは二十日頃に長久保城を囲むつもりゆえ、そなたもその頃に岡宮へ参られるとよい」
「承知いたした」
この会談が行われたのは、九月十六日のことだった。
晴信は義元に勧められた通り、家臣に岡宮での作陣を命じてから沼津の千本松へ向かう。そこで束の間の休息を取ってから九月二十一日に岡宮の陣へ入った。
翌日、義元は今川勢を従えて長久保城を囲み、様子を窺(うかが)う。
そして、二十六日に坂東から信じ難い話が届けられる。
古河公方の足利晴氏、関東管領の山内上杉憲政、扇谷上杉朝定の率いる軍勢が北条綱成の守る河越城を包囲したのである。
だが、その兵数が尋常ではなかった。
なんと三千ほどの城兵に対し、古河公方と関東管領の連合軍は、八万を超える将兵で河越城を幾重にも取り巻いていた。
その話を聞いた晴信は啞然(あぜん)とする。
――義元殿がゆるりと申されたのは、これを待っていたからか!?……それにしても、八万の軍勢とは……。一気に動かれたならば、河越城が落ちるどころか、本拠の小田原城さえも危ないのではないか?
それが正直な感想だった。
しかし、事態は少し違った方向に動き始める。
長久保城に籠もっていた北条長綱から義元に降伏の申し入れがあり、「城を明け渡すかわりに城内の将兵が小田原へ帰ることをどうか許してほしい」と懇願してきた。
しかし、義元はこれを承諾しなかった。
理由は、北条氏康から正式な申し入れがなかったからである。
早急な城攻めは行わなかったが、真綿で首を締めるように長久保城の包囲を狭めた。
同じように、河越城を囲んだ八万の大軍も性急には動かず、北条からの降伏を待っているようだった。
明らかに、この二つの動きは、密接に連携していた。
――河越城の城将は確か、祝言を上げたばかりの北条氏康の妹の入り婿、義弟となって北条の姓を名乗った綱成であったはずだ。古河公方と関東管領は、かの者の命と引き替えに北条家の坂東撤退を強要するつもりなのであろう。それにしても、長久保城の件を片付け、今川家と和を結ばなければ交渉のしようもあるまい。ならば、そろそろ、来るか?
晴信が予想した直後、十月十一日に北条氏康から直筆の書状が届く。
内容は今川家との和睦を仲介してほしいという嘆願だったが、その文面からは切実な危機感が伝わってきた。
――おそらく、叔父や家臣たちが置かれた状況を考えると、氏康殿自身が息をするのも苦しく、生きた心地がしないのであろう。
同じ惣領として、その苦悩は痛いほど理解できる。
- プロフィール
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海道龍一朗(かいとう・りゅういちろう) 1959年生まれ。2003年に剣聖、上泉伊勢守信綱の半生を描いた『真剣』で鮮烈なデビューを飾り、第10回中山義秀文学賞の候補となり書評家や歴史小説ファンから絶賛を浴びる。10年には『天佑、我にあり』が第1回山田風太朗賞、第13回大藪春彦賞の候補作となる。他の作品に『乱世疾走』『百年の亡国』『北條龍虎伝』『悪忍 加藤段蔵無頼伝』『早雲立志伝』『修羅 加藤段蔵無頼伝』『華、散りゆけど 真田幸村 連戦記』『我、六道を懼れず 真田昌幸 連戦記』『室町耽美抄 花鏡』がある。